【書評】『人を動かすナラティブ なぜ、あの「語り」に惑わされるのか』/大治朋子・著/毎日新聞出版/2200円
【評者】香山リカ(精神科医)
私事になるが、いま山奥の孤立地区の診療所でへき地医療に携わっている。住民の多くは高齢者だが、余裕があるときは必ずその人のこれまでの人生を尋ねることにしている。80代の女性が言った。
「私ね、この胸の中にお話がたくさん詰まってるの。」
農家に嫁ぎ、子育てや農作業、義父母の介護に追われた彼女は、自分の人生のストーリーを誰かに語りたくてたまらなかったのだ。数々の受賞歴もある毎日新聞の敏腕記者が注目したのも、この人生の物語、「ナラティブ」だ。人は誰もが自分の記憶を物語として記憶しており、社会的な現象や他人のことも物語として理解し、共感したいと考えているというのだ。
戦争被害や虐殺の状況を生き延び、それを含めて自分の人生を物語として紡ぎ出すことができれば、多くの人はそれを受け入れ、生き直すことができる。「セルフ・ナラティブ創りは、PTSDに苦しむ人々の大きな助けとなりうる」と著者は言う。またレイプ被害を著書にしたことで、「これはまさしく私の物語だ」と共感し、救われる人もいる。ナラティブにはそんなポジティブな力があるのだ。
しかしその一方で、「他者の物語に深く共鳴し、その世界に没入したい」と思う人たちを狙い、陰謀論やテロリズムに加担させようとする動きもある。昨今、日本でも問題になっているカルト宗教などもその手法で信者を洗脳しようとしていると考えられる。
では、そういった“悪しきナラティブ”に巻き込まれないためにはどうすればよいのか。著者はさまざまな専門家にインタビューを重ね、その処方箋をいくつも示すが、私の心に残ったのは「他者のナラティブを読む、聞く」というシンプルな方法だ。
過激で人を煽る物語ではなく、時間をかけてゆっくり読める、あるいは聞ける誰かの物語を吸収、咀嚼する。やはりネットの煽動的な書き込みや動画にエキサイトするのではなく、じっくり本を読んだり、身近な人の人生の話に耳を傾けたりするのにまさることはなさそうだ。
※週刊ポスト2023年9月29日号