【書評】『殉教の日本 近世ヨーロッパにおける宣教のレトリック』/小俣ラポー日登美・著/名古屋大学出版会/9680円
【評者】井上章一(国際日本文化研究センター所長)
カトリックには、列福と列聖の制度がある。殉教者などを、その聖性におうじ、福者や聖人として顕彰してきた。日本人にも、その信仰が評価され登録された者は、少なからずいる。
たとえば、二十六聖人とよばれる人たちがそうである。彼らはキリスト教をにくむ豊臣政権に摘発された。1597年には、長崎で処刑されている。そのうち、20人は日本人であった。列福は、1627年と29年になされている。1862年には列聖、殉教の聖人として公認された。
聖性の認定にあたっては、きびしい審査がおこなわれる。その死は、ほんとうに殉教だったのか。ふだんの信心は、どのようなものであったろう。処刑にさいして、奇蹟はおこったか。以上のようなことをあかしだてる証言や遺物が、徹底的にあつめられる。そして、ある種裁判めいた手続きをへながら、検証されていく。
二十六聖人の列福にさいしても、さまざまな証拠がもちだされた。1630年代のそれらは、しかし今ふりかえれば虚偽としか言いようのないデータばかりである。おりめただしい歴史研究者なら信じるにたりないと判定するだろう記録が、物を言った。フェイクニュースの束が、ヨーロッパの宗教的な査定を左右したのである。
二十六聖人は、長崎で磔にされている。十字状の柱にしばりつけられ、槍でつきさされもした。当時の日本では、重罪人むきの一般的な方法により、処刑されている。これが、ヨーロッパではゴルゴタのキリストにもつうじる処遇として、顕伝された。あるいは、ローマ帝国時代の迫害をほうふつとさせるやりかたとしても。
ほかにも、ヨーロッパ側のバイアスをしめす事実が、この本ではほりおこされている。ぱっと見は、日本の二十六聖人をとりあげた本だと、思われるかもしれない。だが、ここで論じられているのは、ヨーロッパの観念であり、心性である。日本の出来事をリトマス試験紙として、ヨーロッパの反応をさぐる仕事にほかならない。
※週刊ポスト2023年10月6・13日号