「もうだめだ」「別れたい」──誰もがそんな気持ちを抱きながら、結婚生活を送っている。だからこそ、ともに時間を過ごすことを選んだ夫婦の話に耳を傾けたい。2004年に亡くなった作家・中島らもさん(享年52)の妻の中島美代子さん(72才)が夫婦生活を振り返る。
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亡くなってからもうすぐ20年ですが、らもと過ごした景色はいまでもすぐ目に浮かびます。いなくなったことを忘れて、“これ、らもに聞いてみよう”と思ってすぐ、“あ、違う。いまはいないんだ”とハッとすることすらある。あの人っていまどうしてるのかしらとか、この音楽、どう思う?とか、らもは何でも知っていて何でも答えてくれるから、いまでもつい、いろいろ聞きたくなってしまうんです。
初めて会ったのは神戸・三宮のジャズ喫茶。私は短大1年生、彼は灘高3年生でした。らもは腰まで伸ばした長い髪にベルボトムのジーンズ、色あせたTシャツ姿。年下のはずなのにおじさんみたいに見えました。
当時から博識で話が面白く、一度見た映画や読んだ本が全部、完全に頭に入っていてその場で再現してくれる。周りには神戸大生とか、ボーイフレンドがたくさんいたけれど、らもと一緒に登った保久良山(神戸市東灘区)でいきなりキスされたとき、彼の目が本当にきれいでキラキラしていて、その日からつきあうことにしました。あのときの不器用なキスは、いまでも忘れられません。
4年間の交際を経て1975年に結婚、新婚生活をスタートしました。らもは歯科医の父と教育熱心な母がいて、私も宝塚の“お嬢様”として育てられたから、いま振り返るとふたりとも結婚してからの方が好き放題できたように思えます。
らもが会社員2年目の25才のとき、宝塚に一戸建てを購入しました。念願の「マイホーム」というわけですが、そこには私たちの友人のほかバックパッカーや留学生、パンク少年など多いときは10人ほど居候していた。らもが外で知り合った人を次々と連れてくるんです。あの頃、平均してひと月延べ60〜70人が泊まっていましたね。そこにいる人たちとバカ話をして、家の中で花火をしたこともあった。
近所の人からは「庭で座禅を組んでいる外国人は何なの?」「人の出入りが多くて誰が旦那かわからない」と言われたし、実際2人の子供たちも小さい頃は誰がパパなのかよくわかっていなかった。だけどおかげで人見知りしない子になりました。