ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十二話「大日本帝国の確立VII」、「国際連盟への道5 その9」をお届けする(第1395回)。
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一九一四年(大正3)十月三十一日に開始された日本軍の青島要塞総攻撃。これを『東京朝日新聞』は翌十一月一日付の紙面で詳しく報じているが、その内容は総司令官神尾光臣中将の作戦を高く評価するものだった。(以下〈 〉内は当該紙面からの引用)
まず見出しに、〈●總攻撃の幕開く ▽陸海から一齊の炮撃 ▽青島の運命愈切迫す =戰地特報門司發電=〉とある。書き出しは、〈我青島攻圍軍の作戰は十月中旬に於ける降雨の爲故障を生じ一時は根本より變更さるゝに至らずやと悲觀せしめたるも(中略)愈三十一日天長節祝日の拂曉を期して壯烈なる總攻撃は開始されたり〉である。ちなみに天長節とは天皇誕生日のことで、当時の天皇(大正天皇)の誕生日は八月三十一日であったが、この日は暑く式典には不向きだということで十月三十一日も天長節として扱う、ということになっていた。
これは日本軍のあまりよくない習慣だと私は考えるが、天長節を期して総攻撃とか、紀元節に目標を陥落させるとか、とくに陸軍はこれ以降、天皇に関する祝日に作戦の重要な節目を持っていくという傾向が出てくる。それをよくないと私が思うのは、スケジュール的に無理な場合でも逆に日付に縛られて戦うことになってしまうからである。
もっとも、この青島総攻撃については日程的に恵まれていたのでマイナスは無かったが、このやり方だと総攻撃などの日時が敵に予測されてしまうという問題も出てくる。それでも日本軍がこの習慣に固執したのは、やはり日本軍の総司令官は天皇であり、日本軍は天皇の御稜威(霊力)によって守られているという意識が強かったからだろう。当然それが高じれば「皇軍」は無敵であり、無謀な作戦も成功するという驕りにつながっていく。
しかし、このときの日本軍にはそんな驕りは微塵も無かった。総司令官の神尾中将は、合理的な頭脳の持ち主だったからだ。朝日の記事によれば、総攻撃前日まで敵の砲撃に耐え満を持して〈死せるが如き沈默を守〉っていた攻囲軍は三十一日、号令一下砲撃を開始した。〈世界文明の粹を集めたる大炮は一齊に炮火を開けり炮聲天地に震撼し硝煙●霧を破つて山東の日色爲に暗澹たり〉という。最新鋭の大砲の集中砲火に天地を震わすような砲声が轟きわたり、硝煙であたりは昼なお暗い状況になったというのだ。
これに続いて記事は、〈▲堅固なる敵の防備〉と小見出しをつけ青島要塞の防備について触れているが、要塞の防備は朝日(つまり日本)が評価するほど堅固で無かった。この点は後で触れよう。この記事のポイントはもう一つ、〈●陷落は何つか ▽新しき戰術の實現〉という項目だ。再三述べたように、それはじっくりと時間をかけ砲台を多数構築するという戦術である。
そのことをこの記事は、〈我軍も決して猪突的の惡戰を試みることなく飽まで最近の攻城戰術に則り正攻法を行ふのであらう〉と述べている。もちろん、この「猪突的の惡戰」とは日露戦争の旅順要塞攻防戦において乃木希典大将が取った、いや取らざるを得なかった歩兵による突撃戦術を揶揄した言葉だろう。しかし、この記事は乃木戦術に対する単純な批判では無い。
その証拠に、これに続く部分で〈今回の青島攻圍が旅順の場合と全く情況が違ひ敵は來援の望みなき孤軍であるから攻撃の戰略もそれに據り決して奇襲、強襲の如き火急なやり方を選ばないのである〉としている。前回紹介したアメリカのブリース記者はなにもわかっていなかった(わかっていないふりをしたのか)が、この朝日の特派員(署名は無い)はすべてわかっている。まさにそのとおりで、軍事常識もよくわきまえていると言えるだろう。
だからこの記者自身の締めの言葉は、〈兎に角一齊炮撃の開始は野戰的攻城戰が終りを告げ眞の攻城戰に移つたことを意味して居る〉であり、記事の最後の最後に〈某軍事通〉の〈此間塹壕に隱忍して輕擧猪突のはやり氣を押へた士卒は慥に賞贊に値する〉という言葉を紹介していることでもわかるが、この記事はそういう命令を下した神尾中将の戦術を高く評価している、と言っていいだろう。