ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十二話「大日本帝国の確立VII」、「国際連盟への道5 その10」をお届けする(第1396回)。
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第一次世界大戦では航空機、戦車、毒ガスといった新兵器が実用化されたが、その時代は戦争報道の分野でも日清・日露のころにくらべて格段の進歩があった。
それは、今日で言うグラフ雑誌(写真を主体とした雑誌)の普及である。戦場写真は昔からあり新聞にも必ず掲載されてはいたが、カメラもフィルムも精度は低く、そのわりには高価で写真が主体のグラフ雑誌に使えるようなものでは無かった。粒子が粗いため、拡大すれば写真というより「デッサン画」になってしまうからである。ところが技術の進歩はカメラを小型化しフィルムの精度を上げ、価格は下げた、印刷技術も進歩した。そこで、写真を中心とした雑誌が良質で採算が取れるものに変わった。ここに目をつけたのが、当時の大手出版社だった。
そもそも日本のマスコミ、いや大日本帝国の「歴史的な分岐点」である日比谷焼打事件で、マスコミの代表である新聞はどのように変化したか。『逆説の日本史 第二十六巻 明治激闘編』で述べたとおり、大衆に迎合するようになった。その具体的な迎合の中身とは、「戦争を煽ること」である。煽れば煽るほど読者は増え、収益を上げることができる。新聞はなにかと言えば号外(これは無料)を出し、それで本紙の購読者を増やして大儲けする、というビジネスモデルを確立していた。
当初は指をくわえて見ていたのが出版界である。新聞と雑誌は同じ印刷物ではあるが、雑誌は新聞にくらべて速報性が劣るため、速報よりも分析に重点を置くようになった。それは活字だらけになるということで、どうしても知識階級向けになるから部数の点では新聞には遠くおよばない。新聞のような薄利多売のビジネスは、出版界では無理だと諦めていたのである。
ところが、ここに大橋佐平という天才的な出版人が現われた。一八三六年(天保6)越後長岡の生まれで、藩を率いて新政府に最後まで抵抗した河井継之助(1827年〈文政10〉生まれ)よりは九歳下だが、佐平は材木商の息子だった。新政府に早くから恭順し地元で『北越新聞』を創刊した後、こうした稼業のほうが性にあっていたのだろう、上京し「博文館」という出版社を起こした。ちなみに、社名の「博文」は伊藤博文から取ったと言われているが、その経営方針は一般大衆向けの教養物を大量印刷でコストを下げた廉価版とし、売り尽くしをめざして一気に販売するというものだった。このビジネスモデルは大当たりして、博文館は日本一の出版社にのし上がった。
たとえば、日本初の総合雑誌『太陽』、本格的な文芸専門誌『文藝倶楽部』は同じ一八九五年(明治28)に博文館が創刊した雑誌である。『太陽』では後に天皇機関説をめぐって美濃部達吉と上杉慎吉が誌上で論争したし、『文藝倶楽部』には泉鏡花、樋口一葉、国木田独歩といった錚々たるメンバーが寄稿している。また「読んだことは無いがタイトルは誰でも知っている」当時の文壇の大御所、尾崎紅葉の小説『金色夜叉』、これ自体は『読売新聞』連載だが、主人公「間貫一」に「来年の今月今夜のこの月を僕の涙で曇らせてみせる」と言わしめた恋敵「富山唯継」のモデルは、なんと大橋佐平の息子で博文館二代目社長となった大橋新太郎だという。また「富山唯継」という名も、「親の山のような富(財産)をただ継いだだけの男」という意味だそうだ。ひょっとしたら読売新聞の博文館に対するライバル意識がこのあたりに秘められているのかもしれない。
こうして、さまざまな分野でヒットを飛ばした出版社博文館のドル箱となったのが、日清・日露戦争の写真入りの実録レポート『日清戰爭實記』および『日露戰爭實記』である。週刊では無かったが、現在のように新聞やテレビが一報した内容をもう少し詳しく知りたいという読者の欲求に応えたもので、第一号は一部十銭だったがこれだけで十万部を売り尽くしたという。もちろん日本が勝ち進むにつれて部数は伸び、博文館は莫大な利益を上げた。これで出版界つまり雑誌ジャーナリズムも、新聞業界と同じく「戦争は儲かる」と味をしめてしまったのである。