【書評】『山の本棚』/池内紀・著/山と渓谷社/1980円
【評者】与那原恵(ノンフィクションライター)
四年前の夏の終わり、池内紀さんは突然世を去ってしまわれた。私は新聞社の書評委員会の縁があり、池内さんら十人ほどで催す飲み会や、小旅行に加えていただいた。あるとき、哲学者の木田元さんの案内で東北にでかけ、楽しく一泊して帰京の電車に乗った。居眠りしていた私たちに池内さんが「次の駅で降りますから、ここでお別れします」と声をかけ、小さな駅で風のように消えてしまったことが忘れられない。
ドイツ文学者、エッセイストとして翻訳、評伝など多くの著作を残した。『カフカの生涯』は今も繰り返し読む一冊だ。カフカは「生涯の友」マックス・ブロートに未発表作品、日記なども焼き捨てるよう遺言したが、ブロートは遺稿を編集し、カフカ作品を世に出した。池内さんはウィーン留学中の一九六七年、ブロート死去の前年に彼の講演を聞いている。
池内さんは本誌を含め多くの書評連載を持ち、雑誌『山と渓谷』では十二年にわたった「山の本棚」を執筆。百五十三回目(二〇一九年十月号)が絶筆となった。同じ号に池内さんが終生愛した辻まことについてのエッセイも掲載されていて、胸をつかれる。
本書はこの書評連載を完全収録。取り上げた本は約百年前の刊行から新刊まで、時代もテーマも多彩だ。登山や探検、古今東西の詩歌や物語、村の記録、樹林やきのこ、津波や火山、カエルやハチ、鉄道、地図、山で唄う歌……。
それらの本を、失われた土地の記憶や生きた人々の姿とともに紹介。鋭い文明批評でありながら軽やかなユーモアも漂う。こつこつと研究を重ねた著者、地域の出版社にも細やかな目を配った。
池内作品はどれも魅力的だが、本書の文章に特別な親密さを感じるのは、『山と渓谷』の読者、どこかで山靴の跡を重ねた山仲間に向けてつづったからだろう。同誌は池内さんの絶筆となった翌月の号に追悼記事を掲載。編集者としてではなく、風に吹かれて一緒に旅をした友への惜別の言葉が温かい。そうして本書が編まれた。
※週刊ポスト2023年11月10日号