ニーズがあるからまかり通っているのか、どうなのか。コラムニストの石原壮一郎氏が「コタツ記事」について考察した。
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《世の様の手に取る如く炬燵の間》
正岡子規の後継者で、超人気俳人だった高浜虚子が詠んだ句。「炬燵(コタツ)にあたっていても、世の中の出来事が手に取るようにわかる」という意味です。さすが虚子、まさに現在の「コタツ記事」の隆盛を見事に予言していると言えるでしょう。今日もコタツから出ないまま「世の様」を書いた記事が、あちこちのメディアで発信されています。
ジャーナリストの江川紹子さんが、11月21日に自身のエックス上で次のように記して、いわゆる「コタツ記事」を痛烈に批判しました。
〈スポーツ紙のコタツ記事は、なんとかならないか。Xでのつぶやきを拾うくらいならまだいいが、それなりに時間をかけて書いた原稿をつまみ食いして刺激的な見出しでPVを稼ぎ(金銭も発生。ほとんどドロボーじゃないか)、その見出しを見て短絡的に逆上する人たちの矛先はこちらへ。メディアの倫理を問う。〉
さらに「江川紹子氏、『スポーツ紙のコタツ記事ははほとんどドロボー』と私見」とかって、コタツ記事を出してみろよ、と言いたい。〉とも。
江川さんのお怒りはごもっともです。前々から不快に思ってらっしゃったのでしょう。ネットに流れてくる記事には、タレントや著名人の発言を引用して並べているだけのものや、人気ドラマのあらすじを広報資料を元に紹介しているだけのものが大量にあります。
多くの人が多様な情報に触れることができるという点では、ドロボー……じゃなくて、コタツ記事にも三分の理がないわけではありません。ただ、番宣系のコタツ記事は持ちつ持たれつだとしても、発言や原稿を引用され損という状況は明らかにヘンです。
コタツ記事の隆盛を憂い、コタツ記事の無意味さを世に訴える意味を込めつつ、ためしに「コタツ」をテーマにしたコタツ記事を書いてみましょう。