ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十二話「大日本帝国の確立VII」、「国際連盟への道5 その14」をお届けする(第1400回)。
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なぜ、日本人は軍隊の「兵站(補給)部門」をまったく評価しなかったのか?
じつは、この問題に対する明確な解答は無い。それどころか一般的には、この「兵站部門の軽視」が日本軍の宿痾つまり「不治の病」であったという認識も乏しいように思う。
軍隊は戦うことが仕事である。戦争を実際にやってみて勝利の障害になった点が指摘されたら、当然世界各国どこの軍隊でもそれを改めようとする。たとえば、日本は島国でありしかも江戸時代は鎖国をしていたために、馬が近代的な戦闘や輸送に適さない在来種しかいなかった。日清、日露戦争の時代には列車はあるがトラックなどは無い。補給には強壮な馬が欠かせなかったのだが、欧米の優秀な馬に対して日本の軍馬はかなり見劣りするものであった。
このことは乗馬をたしなんでいた明治天皇も痛感したようで、その鶴の一声で日露戦争直後の一九〇六年(明治39)、どの省庁にも属さない独立した馬政局という行政組織が作られた。トップは局長では無く長官で、内閣直属の組織だ。きわめて異例のことで、もちろん目的は「軍馬の改良」である。普通の国では「馬匹の改良」は、作物の品種改良と同じく農林水産を所管する省庁の仕事だ。当然日本でも農商務省が担当すべきだったのだが、やはり「明治天皇のお声掛り」だったという意識は特別なものだったのだろう。
「馬匹の改良」はその後も陸軍が主導となって行なわれ、陸軍出身の桂太郎が首相となった時代に、それまで禁じられていた「馬券を買って勝ち馬に賭ける」近代競馬の開催が認められた。日本には古くから神事として馬の競走はあった。競馬といい流鏑馬などもその一環だが、神事であるがゆえにそれを賭博の対象とすることは、少なくとも公式には認められていなかった。
しかし、桂内閣では日本の軍馬の改良を進めるために、業界の活性化と資金の流入を可能にする近代競馬の開催を認めたのである。つまり国や自治体が開催する「公営ギャンブル」でもっとも古い歴史を持つ競馬は、日本においてはそもそも軍馬の改良を目的として始められたものだった。他の公営ギャンブルである競輪、ボートレース、オートレースには無い天皇賞が競馬にあるのは、そうした歴史的経緯があるからだ。
このように、兵站部門の「手段」であった馬は外国との差が指摘されるとただちに改良する方策が練られたのに、兵站部門自体の改善はまったく行なわれなかった。誰が見ても改めなければならない点は、兵站部門の兵士を実際には戦闘に参加しない人間として蔑視する傾向であり、それは素人から見ても一目瞭然だったから、代議士川原茂輔は「じつに誤った考えである」と強く警告した。
にもかかわらず、兵站部門の功労者に勲章を与えるとか優秀な軍人を兵站部門に移動させるとか、方策はいくらでもあったと思うのに、そういうことはまるで実施されなかった。軍馬の改良は進められたのに、兵站部門そのものの改善はなされなかったのだ。きわめて不思議な話であることはおわかりだろう。
この謎を解くためには、日本陸軍が最後の最後まで改良しなかった他の欠陥と比較してみるという方法がある。たとえば、すでに述べたように陸軍は一九〇五年(明治38)に採用した小銃(三八式歩兵銃)を、一九四一年(昭和16)に始まった大東亜戦争でも使い続けた。この間、日露戦争、第一次世界大戦、支那「事変」、ノモンハン「事件」等多くの対外戦争があり、その欠陥が認識されていたにもかかわらず、である。
もちろんその背景には日本の工業生産力の乏しさがあるのだが、もっとも大きな原因はそれが「菊の御紋章」入り、つまり「天皇ブランド」の「下賜品」であったことだろう。兵器に限らず工業製品はユーザーが使ってこそ、初めて「使い勝手」がわかるものである。それが小銃なら「引き金が引きにくい」とか「照準が合わせにくい」とか、苦情が寄せられることによってメーカー側も初めて欠陥がわかり、結果的に製品は改良されていくことになる。ところが「天皇ブランド」ではこれができない。「畏れ多くもかしこくも陛下からいただいたもの」だからだ。「使いにくいとは何事だ、お前の練習が足らんのだ」ということになる。だから改良は遅れに遅れる。