【書評】『小林秀雄の謎を解く 『考へるヒント』の精神史』/苅部直・著/新潮選書/1980円
【評者】平山周吉(雑文家)
大岡昇平によって「人生の教師」「現代のソクラテス」と呼ばれた評論家の小林秀雄が、インテリ界隈だけでなく、一般読者との対話に成功するのは『考えるヒント』からだった。『考えるヒント』は小林にとって初めてのベストセラーとなった。
小林秀雄論はあまたあるが、その『考えるヒント』に焦点を当てたのは本書が初めてだろう。『考えるヒント』は、昭和三十四年(一九五九)から月刊「文藝春秋」に随時掲載された。尊敬する菊池寛の「読者尊重の立場」を、筆の赴くままに小林流に実践したエッセイとなる。大学入試の定番となった小林秀雄だが、出題は『考えるヒント』からが多かった。
著者の苅部直東大教授は、小林の愛読者ではないとはっきり書いている。アカデミズムでの小林の評価は、岩波書店から文庫収録を相談され、「昭和十年までのものにしたら」とサジェストした丸山眞男の意見が代表的なのだろう。丸山の孫弟子にあたる苅部は、『考えるヒント』をむしろ初心で読み解き、一九六〇年代日本の「精神史」として、小林の豊かな考察に目を向ける。
掲載の始まった年は、六〇年安保の直前である。敗戦後には『モオツァルト』『ゴッホの手紙』『近代絵画』など、美の世界に遊ぶかの感があった小林が、同時代日本を正面から批判し、その一方で伊藤仁斎、荻生徂徠、本居宣長とつながる徳川思想史へ深入りしていった。
小林秀雄の本格的な再始動に何があったか。著者は小林秀雄が大きな問題軸と捉えたいくつかの事象を発見してくる。小林はそれらに如何に応答したか。
物理学者ハイゼンベルグの著書から示唆を受けた近代科学の全的支配への批判、左翼の歴史観や一般向け歴史書への激しい否定、日本人の「言語伝統」への信頼。繰り返し語りかけることを厭わず、小林は「信」を語った。「常識」「無私」「歴史」「伝統」といった小林秀雄のキーワードがあらためて立ち上がってくる。
※週刊ポスト2023年12月15日号