初めての紅白歌合戦の司会に挑むお笑いタレント・有吉弘行(49)。ヒッチハイク旅で時代の寵児となった後、一時は“どん底”も経験したが、現在は冠番組11本を数える大躍進を遂げた。そこに至るには、2人の「恩人」の存在があった。
紅白の司会を務めることが発表された10月6日、有吉はNHKを通じてこうコメントした。
〈一番、尊敬している内村光良さんが以前、紅白の司会をしていたのを見ていて、いつか内村さんのようになりたいと目標にしていたので、信じられないです〉
2017~2020年まで4年連続で総合司会を務めた内村から、紅白司会のバトンを受け取った有吉。2人の関係は2000~2005年放送の『内村プロデュース』(以下『内P』、テレビ朝日系)での共演に遡る。
バイトもできなかった
当時、有吉は『進め! 電波少年』(日本テレビ系)のヒッチハイク旅企画で一世を風靡した後、長く続いた“不遇の時代”の真っ只中にいた。全国ネットのレギュラーがなくなり、地元・広島のローカル局への出演のみ。世間の冷たい目から隠れるように生活していた。
有吉は自著『お前なんかもう死んでいる』(2010年、双葉社)でこう述懐した。
〈あのどん底時代、「有吉、いつまでスター気取りなんだよ!」って言われるのが屈辱的でしたね〉
〈バイトもできなかったんですよね。やっぱりバイト先でも蔑まれるのが嫌だったんです。(中略)恥をしのんでバイトして生きていこうっていうチョイスはそのときなかったんですよね〉
内村がMCを務める『内P』は、そんな最中の好機だった。冷遇された芸人に光を当てるコンセプトの番組だったからだ。同番組で共演した、おさる(55)が振り返る。
「有吉さんはようやく再び陽の目を見るチャンスがきた、とばかりに意気込んでいました。内村さんも『暴れそうなヤツが入ってきた』って感じで一際期待していました。
有吉さんは収録が始まるとスイッチが入り、気迫が感じられた。モノボケの時、他の若手が小道具を使って一生懸命ボケるなかで、有吉さんだけ脱ぎ始めるみたいな、ベクトルの違う笑いを取っていましたね」