昭和の名宰相・田中角栄が亡くなったのは1993年12月16日のこと。毀誉褒貶が激しかった田中だが、国民を広く魅力したその語り口は、今もなお多くの人々の心に残っている。政治評論家の小林吉弥氏はこう語る。
「田中角栄は54歳の若さで首相に就任しました。昨今の世襲議員と違って叩き上げだから、庶民の幸せを間近に見てきた。若手議員に『バカ野郎、どこを見て政治をやっている!』とよく怒鳴りつけたのは国民の幸福を最優先したからです。
33本もの議員立法を成立させた類まれな実行力の源泉は、『自分の言葉で全力で話せ。そうすれば、はじめて人が聞く耳を持ってくれる』という信条です。叩き上げで政界の頂点まで上り詰めた田中の言葉は、人間の本質をまっすぐに突いてくるものばかりなのです」
没後の30年の今、聴く者を奮い立たせる言葉の数々を振り返る。
「我と思わん者は誰でも遠慮なく大臣室に来てほしい。何でも言ってくれ。上司の許可を得る必要はない。出来ることはやる。出来ないことはやらない。全ての責任はこの田中角栄が背負う。以上」(1962年、44歳で大蔵大臣に就任した際の官僚たちへの挨拶)
「議員は1人というものの、この背後には15万5千人の国民大衆があって、議員1人の発言は、まさに国民大衆の血の叫びなのであります」(1947年、初当選から3か月後の衆議院本会議にて)
「賢者は聞き、愚者は語る。今日から賢者になる。若い連中の話も聞く。何でも言ってこい」(1985年、赤坂の料亭「川崎」にて。脳梗塞で倒れる前日に発した、公に残した最後の言葉)
「いい政治というのは、国民生活の片隅にあるものだ。目立たずつつましく、国民の後ろに控えている。吹き過ぎていく風でいい」(早坂茂三秘書に語った言葉)
「戦争を知っているやつが世の中の中心である限り日本は安全だ。戦争を知らないやつが出てきて、日本の中核になったとき、怖いなあ」(藤井裕久・元衆議院議員に語った言葉)
【プロフィール】
小林吉弥(こばやし・きちや)/1941年生まれ、東京都出身。週刊誌記者などを経て1968年に政治評論家として独立。田中角栄研究の第一人者として知られる。
撮影/山本晧一(報道写真家)
※週刊ポスト2023年12月22日号