「イスラエル・ガザ戦争の泥沼化」「台湾総統選挙の行方」「マイノリティの包摂問題」「ネットによる言論の分断危機」「組織的不祥事と『忖度』の追及」──大きな戦乱や政変が起こる年と言われる辰年に備えるべく、『週刊ポスト』書評委員が選んだ“2024年を占う1冊”は何か。作家・嵐山光三郎氏の1冊を紹介する。
【書評】『恋ははかない、あるいは、プールの底のステーキ』/川上弘美・著/講談社/1870円
【評者】嵐山光三郎(作家)
川上弘美さんは、五歳から七歳までを父親(東大教授・生物学)の留学さきであるアメリカのカリフォルニアで過ごした。大学のボスの家で開かれたパーティーで出されたステーキを噛みきれず、こっそりと庭にあるプールの底に捨てた。表題の『プールの底のステーキ』はその記憶からつけられた。
カリフォルニアの幼稚園や公立小学校で一緒だった友人たちと再会する。現役で東大に入学して、作詞家になったカズ(二回離婚)、父がアメリカ人で母が日本人のアンは二人の妹がいるが、両親は離婚している。いろいろな友人が登場するが共通するのは男も女も離婚経験があることだ。語り手のわたし(小説家)も一度離婚している。高学歴のリアルな自意識。
多くの登場人物が「飛んだ」。大地から離れて、虚空へはらはらと舞いあがる。『万葉集』で黄葉(もみちば)が飛び、『新古今』で「蛍」が行方をくらますように。「飛んで火に入る夏の虫」になる。
川上さんの小説は、日常生活の些細事や、なにげない会話が重みをもってユーモラスに語られる。酒をたしなみ、旧友たちと「呑めるすし屋」や「神楽坂の高級和食店」へ行ったあとの満足感と倦怠。むっとする人生。昼食にうどんをゆでながら、別れた夫についた嘘を思い出す。
──あなたのこと、これからもずっと一番好きだと思う──
離婚届を出したあと口にした。いやな女だよね。声を出し、自分に向かって言った。いやな女だよ、とつぶやきながらうどんをすする。
二〇二〇年から二〇二三年まで、新型コロナ感染に包まれた不安で、虚実が入り乱れた不気味な日常を体感しながら雑誌「群像」に三年間連載した自伝小説。六十五歳になった小説家の自意識と外界をつなぐ混沌。
酒場で会った見知らぬ人を家へ連れてくる父のエピソードが愉快。軽やかな文体は俳句の骨法があるからだ。二〇二三年の野間文芸賞受賞作。三ページで一回笑えるから、お正月の読書におすすめ。
※週刊ポスト2024年1月1・5日号