「イスラエル・ガザ戦争の泥沼化」「台湾総統選挙の行方」「マイノリティの包摂問題」「ネットによる言論の分断危機」「組織的不祥事と『忖度』の追及」──大きな戦乱や政変が起こる年と言われる辰年に備えるべく、『週刊ポスト』書評委員が選んだ“2024年を占う1冊”は何か。精神科医の香山リカ氏が選んだ1冊を紹介する。
【書評】『はじめての人類学』/奥野克巳・著/講談社現代新書/990円
【評者】香山リカ(精神科医)
この現実を説明する本なんてあるのだろうか。そんな無力感にかられた年となった。
10月7日、パレスチナのガザ地区を実効支配するハマスがイスラエルに向けて行った奇襲攻撃を端緒として、イスラエルとハマスの激しい交戦が始まった。とくに多くのパレスチナ市民が犠牲となり、SNSに投稿された犠牲となった子どもやそれを嘆き悲しむ親の写真や動画に胸がつぶれそうになったのは、私だけではないだろう。
パレスチナ問題やユダヤ人の歴史について書かれた本を何冊か読んだが、どれもこのむごい現実を説明するには足りない。「人間とはいったい何なのだろうか」という問いが私の心に去来し、出会ったのが本書だった。
人類学という学問の最重要人物である4人の思想を通して著者はこの「人間とは何か」に迫ろうとするが、この学問もどうやらはじめは「西洋対非西洋」という対比から生まれたのだと知った。
ただそんな中、イギリス出身のティム・インゴルドは、人間をもっと普遍的なものとしてとらえ、「人間はつねに生物学的で動物的な存在であり、同時に社会的関係の中を生きている存在」という主張にたどり着く。著者は言う。「インゴルド人類学のテーマは、一言で言えば、(動詞の)『生きている』です。彼に言わせれば、『生』というのは固定された不動のものではありません。絶えず動き続けて生成と消滅を繰り返し、変化するものなのです。」
ただ、誰もがインゴルドのように豊かな生の流動に身をまかせながら、「生きている」ことの意味を探るに至っていないことは明らかだ。だからこそ、国と国との衝突、領土の支配など有史以来繰り返してきた争いがいまもなお、こうして起きているのだろう。だとしたら、著者が言うように私たちは、今こそもう一度、「『外部』にある可能性へと想像力を広げて」いくべきなのかもしれない。
人間とはいったい何か。なぜ愚かな争いをこうして繰り返すのか。来るべき年も考え続けたい。
※週刊ポスト2024年1月1・5日号