「イスラエル・ガザ戦争の泥沼化」「台湾総統選挙の行方」「マイノリティの包摂問題」「ネットによる言論の分断危機」「組織的不祥事と『忖度』の追及」──大きな戦乱や政変が起こる年と言われる辰年に備えるべく、『週刊ポスト』書評委員が選んだ“2024年を占う1冊”は何か。翻訳家の鴻巣友季子氏が選んだ1冊を紹介する。
【書評】『ハンチバック』/市川沙央・著/文藝春秋/1430円
【評者】鴻巣友季子(翻訳家)
お荷物となる高齢者の集団自決発言も飛びだした2023年、今後の弱者やマイノリティの包摂性について考えさせられた。重度障害者を主人公とした小説を挙げたい。
津久井やまゆり園の事件から7年が経つ今年、同事件をモチーフにした辺見庸の小説『月』が映画化され、原作も読者を広げた。語り手は、性別も年齢も不明の「きーちゃん」。もともと目がほとんど見えず、話せず、上下肢が麻痺して寝たきりの状態だ。語り得ないものに言葉と文字の力で向かい合い、書き手が想像の力で行けるところまで行こうとした凄まじい小説である。
以前、当時の東京都知事が重度心身障害者を見舞った後、「ああいう人ってのは人格はあるのかね」と述べて激しい批判を受けた。『月』の終盤には、施設の男性ヘルパーが各室を訪れ、「あなた、こころ、ございませんよね?」と尋ねては犯行に及ぶ場面が描かれる。
もう一作挙げたいのは、芥川賞を受けた市川沙央『ハンチバック』だ。重度身障者である作者が重度障害者を当事者として書いた作品として、衝撃をもたらした。
語り手の女性は市川本人と同じ筋疾患先天性ミオパチーのため、背中がS字に湾曲し、人工呼吸器をつけている。発話も困難だ。あるとき、彼女は男性介護員に1億5500万円の謝礼で性交の話を持ちかけるのだが……。
『月』も『ハンチバック』も物語の焦点には、人間の自己決定権と自由意思がある。近代以降、個人が個人たるゆえんとして私たちが最重要視してきたこの二つの概念が、昨今の多様性社会で著しい「バグ」を起こしていることに気づかされる。
自立性、自律性、自発性。これらが個人を自由にし多様な生き方の実現に繋がると私たちは信じてきたが、むしろ弱者やマイノリティを排除する面はないだろうか。来年は「包摂的社会」のあり方をよりシビアに見つめなおす年になるはずだ。
※週刊ポスト2024年1月1・5日号