紅葉のシーズンが終わっても相変わらず大人気の観光スポット、京都。そんな京都の大人の愉しみ方の一つ、京都国立博物館(略して「京博」)の穴場を、毎月京博に通い続け公式サイトにマンガエッセイを連載し、新刊『京博 深掘りさんぽ』が話題のマンガ家・グレゴリ青山氏に聞いてみた。
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あなたは京都国立博物館(略して京博)に行かれたことがあるだろうか?
広い敷地に西洋のお城を思わす明治時代のレンガの建物、直線的な平成時代の建物、日本美術を中心に展示する博物館なのに、なぜかロダンの「考える人」の像があるお庭……わたし、漫画家のグレゴリ青山は、この美しくどこかミステリアスな博物館に取材し、2年間、京博のウェブサイトで漫画の連載をしてきました。京博の中には、何があって、何が行われているのか? もし、今、誰かに「京博ってどんなところ?」と聞かれたら、わたしはこう答えるだろう。
「京博、気ぃ遠くなるところ」と。
桃山時代に作られた石垣
そう、京博の敷地の波乱の歴史に、書庫の本の膨大さに、お客様と展示作品を守るため働くスタッフの気の抜けない仕事に、展覧会を開くための準備の大変さに、文化財を修復する方たちの途方もない集中力に、そして、公式キャラクター、トラりんの問答無用で人を笑顔にしてしまう可愛さに……もう、取材中、京博の中でわたしは何度フッと気が遠くなったことだろう。
そんな気が遠くなるほどの魅力が詰まった京博。もしあなたが京博に行かれるのなら、展示室を見るだけではもったいない、今から京博の歴史と不思議を体験できるツアーにご案内しましょう。
さて、現在の京博の入口は、平成時代に作られた南門なのですが、ここはまず、南門には行かず、西側の表門(西門)へ行ってみましょう。ここからは入館できないのだけど、この表門が、実に美しいのです。レンガでできた、イスラム寺院を思わすような立派な門、その向こうに見える明治古都館、設計したのは日本建築界の草分けの一人、片山東熊。東山を背景としたこの見事な構成美、見惚れずにはいられません。
そのレンガ色の門をずっと左に見ていくと、石垣が現れます。ただの石ではありません。お隣の豊国神社に続くこの石垣の石一つの大きさが、人間の身長ほどの巨大さ。この石垣ができたのは明治ではなくて、なんと桃山時代。豊臣秀吉がつくった方広寺の石垣の一部で、実は、京博の敷地は方広寺の敷地の一部だったのです。そしてその方広寺には、なんと、奈良の大仏より大きな大仏があったそう。
しかしこの大仏、完成した翌年には地震で崩壊、新たに作ろうとしたその最中に炎上、さらに再建した際、ともに造られた梵鐘に書かれた文字に家康が「わしを呪う文字がある」といちゃもんをつけ、これが引き金となり、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡してしまうのだ。もはや呪われているとしか思えません。
その方広寺は今も小さいながらも残ってなんと、その梵鐘も残っているのだ。歴史の事件の証拠品がこのように残っているところが京都のすごいところ。
大仏殿があったところは今は公園として整備され、大仏の台座だった位置がわかるようになっていて、今はもうない大仏の姿に思いをはせることができます。そのすぐお隣の豊国神社にも行ってみましょう。ここは豊臣秀吉を祀る神社。今の社殿は明治13年(1880年)に建立されたものだけど、唐門だけは伏見城の遺構で左甚五郎の彫刻がある豪華な門で、国宝に指定されています。
そして注目していただきたいのは、境内にある。特にこれといって特徴のないお稲荷さんのお社なのですが、これから京博に行く私たちは、この場所をしかと覚えて、手を合わせていくことをお勧めします。そのわけは京博へ行ってから。
明治古都館の堂々たる外観
そうそう、大仏があった名残として、近くの和菓子店、甘春堂東店には大仏餅なるものが売られています。江戸時代と同じ製法で作られているそうで、こんなおいしい歴史の証拠品があるというところに、やはり、フッと気が遠くなってしまいます。
では、甘党の方は大仏餅をお土産に買って、そろそろ京博に戻りましょう。
いよいよ南門から京博の中へ入って行くと、まっすぐな道が平成知新館の建物へと続いています。平成知新館へ行く前に、くるっと首を逆に向けてみましょう。このまっすぐな道の先には三十三間堂の南大門。これは秀吉の息子、秀頼がつくったもので、当時方広寺の敷地は大仏殿だけでなく、その南大門まであったとか。
そして首をまた元に戻して平成知新館の入口へ。かつてここは秀頼がつくった大仏殿の南之門があったところ。入り口横の水盤の中を見ると、金属製の円環があり、そこが南之門の柱があった場所の印だそう。入り口を入ったすぐのところにも円環があるので、そこに立ってみて、現代からつながる桃山時代に思いをはせてみるのもいいでしょう。
平成知新館へ入る前に、京博の顔というべき明治古都館を見ておきましょう。
残念ながら今は改修中で、館内は一般公開されていませんが、明治30年(1897年)に片山東熊の設計で建てられた、レンガ造りの堂々たるその外観は、現代に生きる私たちをも圧倒します。この建物、改修中に床下の発掘調査をしてみたところ、あるものが埋まっていたそう。それは、方広寺大仏殿の大きな屋根瓦。展示室の下は、江戸時代に大仏殿が全焼した後の焼け瓦の捨て場になっていたのです。京博の来館者は、江戸時代に焼けた桃山時代の瓦の上に建った明治時代の建物の上で展示を見ていたわけですね。文字通り、歴史が積み重なった京都という土地に、フッと気が遠くなります。