日本大学元理事長で、「日大のドン」と呼ばれた田中英寿氏が1月13日、東京都内の病院で死去した。77歳だった。田中氏はかつて、日本大学相撲部監督として有力力士を次々と角界に送り込んだことで知られる。日大相撲部OBはこう言う。
「1980年から90年代にかけて日大相撲部がアマチュア相撲のタイトルを総なめにしていた時代がある。当時の相撲部監督だった田中英寿氏の野望はすべての相撲部屋に日大相撲部の卒業生を送り込むことだったされます。力士一人を送り込むと支度金として500万円を手にするという話もあったが、どちらかと言えばカネより名誉を重んじていたので、相撲協会の興行は日大OBなくしては成り立たないという状況を目指していた。
正月には関取衆が日大相撲部の稽古場に集まって監督に挨拶するというのが恒例となっており、蒼々たるメンバーが集まっていた。監督夫人もちゃんこ屋を経営し、おかみさんと呼ばれていました」
田中氏自身も日大相撲部出身で、3年時に学生横綱になるなど34個のタイトルを取得。日大相撲部の1学年下にいて唯一の学士横綱となった輪島より強いといわれたが、膝を痛めたことでプロ入りを断念。日大職員となって日大相撲部の監督の道を選んだ。
日大出身者が十両に昇進すると、日大の校章が金刺繍された化粧まわしと明け荷が贈られることになっており、土俵入りで日大の化粧まわしがズラリと並んだ。若手親方のひとりはこう言う。
「田中監督に睨まれると角界でも生き残れない。卒業生が入門する部屋は田中監督が指示し、細かく振り分けてきた。指示を拒否して自分の希望する入門先を選んだためにOB会を除名になった力士もいたし、田中夫妻の勧める縁談を拒否して一般人と結婚した関取が逆鱗に触れたこともあった。境川親方(元小結・両国)も日本大相撲部OB、それも主将でありながら、トラブルがあったことで卒業生を送り込んでもらえなかった」
ただ計算違いもあった。日大OBは十両以上の関取にはすぐ上がれるが、幕内上位にはなかなか通用しなかったことだ。前出の日大相撲部OBはこう言う。
「学生横綱でもプロの世界では横綱や大関にはなれず、おまけに様々な部屋に分散したことで対戦した際に別の部屋で先輩後輩に対して全力が出し切れないといった状況に陥った。“学生出身者は着物ひとつたためない”といった批判も出るようになったし、東洋大や専修大、日体大など相撲強豪校が増え、田中監督もいつしか興味は大学の経営に向いていったようです」
近年は、学生力士より伸びしろがある埼玉栄高や鳥取城北高、明徳高などの強豪高校からの入門者が増えていく流れもできていった。