【書評】『前田家 加賀藩』/宮下和幸・著/吉川弘文館/2420円
【評者】山内昌之(富士通フューチャースタディーズ・センター特別顧問)
百万石を越える近世大名は、加賀金沢の前田家のほかにない。江戸城中の控えの間も御三家と同じであり、徳川将軍家との姻戚関係を通して格別の家でもあった。その割には、幕末維新の変革期には印象が薄い。禁門の変でも、鳥羽伏見の戦いでも、事件に巻きこまれそうになると、危険を察知してすぐ金沢に引き揚げたと冷かされる。外様筆頭の大大名の動きだから目立つだけでない。
世子や当主だった前田慶寧が部隊を直率し、彼が第十一代将軍・家斉とお美代の方の外孫にあたるから何かと話題になるのだ。天皇を見捨てて逃げ出したと後ろ指をさされ、幕府寄りの日和見大名だとありがたくないレッテルも貼られた。しかし、著者は、前田家が御所の内構の門に加えて、京都市中の警衛を熱心に務める勤王の藩だったことを解き明かす。
勤王と徳川体制の維持は、水戸徳川家を見ればわかるように、決して矛盾するわけではない。しかし鳥羽伏見の戦い後になると、徳川家が朝敵となり、佐幕は勤王と両立しなくなる。日和見と評価されがちの前田家の姿勢は、朝廷尊崇の重視と徳川支援の挫折の結果、優柔不断の印象を与えたにすぎない。
実際には、前田慶寧は大政奉還の時点でさえ徳川を助けることが天下のためであり、王政復古の大号令も薩摩らの「暴の極」として兵端が開かれる危機として冷静に認識した。前田家は、加賀・越中・能登三国に「割拠」して実力で薩長に対抗するシナリオも描く。
著者によれば、慶寧は割拠を否定し、統治における「正義」を担った徳川をギリギリまで支持したというのだ。それでも、横暴な薩摩が「正義」に基づいて勅命を奉じるなら従うことも可能だと考えたというのだ。
薩摩中心の新体制に従うのか、あるいは自藩(他藩との連合)の実力に頼るのか、というのは、仙台の伊達家にも共通する大藩の難しい選択だったことを改めて認識させる好著だ。
※週刊ポスト2024年1月26日号