【書評】『八ヶ岳南麓から』/上野千鶴子・著/山と溪谷社/1760円
【評者】香山リカ(精神科医)
仕事の第一線を退いたあとは、海か山の近くで暮らしたい。誰もが一度はあこがれる生き方だが、誰にでもできるものではない。八ヶ岳山麓の山梨県北杜市に建てた家でそれを実現しているのが、女性学の第一人者として知られる上野千鶴子さんだ。本書にはその山での暮らしぶりが率直に記されており、上野さんの他の著作とはかなり違った味わいがある。
誰よりも鋭い観点を持ち社会の問題への発言も続ける東大名誉教授の上野さんだが、山麓の移住者たちのコミュニティでは「ちづこさん」。書斎にこもってばかりいるのではなく、スキー場に通い詰め山菜天ぷらパーティを主催する一方で、ゴミ出しに苦労し家に侵入しようとする虫たちと格闘する。五感を駆使して生活そのものを生き生きと楽しむ様子に、「うらやましい」という言葉がつい口から出てくるのは私だけではないだろう。
ただし、定年後の山暮らしには資力のほかにも必須条件がある、と上野さんは言う。それは夫婦など「カップルの仲がいいこと」だ。大工仕事に薪割り、家庭菜園の世話などさまざまな仕事を助け合ってこなしていかなければ、生活が成り立たない。「家ではお茶ひとつ自分で淹れないなどという男はここでは暮らせない」という上野さんの言葉に「そんなのお安い御用」と言える人だけが、山や花を眺め、静寂の中で読書に没頭し、新鮮な果物や野菜を味わう生活を送れる資格を持つのである。
「夫婦のどちらかが旅立ったら?」と思う人もいるはずだが、いまは訪問看護やグループホームなどの医療・介護資源も整いつつあるのだそうだ。実際に年長のパートナーを当地で看取った上野さん自身も、「大好きな北杜で最期まで」をテーマにしているという。
山の清浄な暮らしをたっぷり味わって本書を閉じた後、「さて、あなたは老後をどう生きる?」という上野さんの声が聴こえてくる。「生活を変えてみたいけど無理だよ」と言わずに、一度考えてみてはどうか。そのきっかけとしてもおおいに役立つ本である。
※週刊ポスト2024年2月2日号