自民党の麻生太郎副総裁の講演会での“失言”が波紋を広げている。上川陽子外務大臣の容姿に関する発言がSNSなどで炎上しているのだ。麻生氏はその後、発言を撤回した。作家の甘糟りり子氏は、一連の騒動をどう見たか。甘糟氏が見解を綴る。
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麻生太郎自民党副総裁の講演会での発言はニュースになった。上川陽子外相を「カミムラヨウコ」と間違えたまま、「ほお、このおばさんやるねえと思いながら」「そんなに美しい方とは言わんけれど」などといい、批判を浴びた。ふた昔前ならニュースとして扱われなかっただろうから、ほんの少しではあるけれど、ましな世の中にはなったのかもしれない。
それにしても、名前を間違えて謝らない上に、公の場で大臣を「おばさん」と呼んだり、政治家の女性の美醜について言及したり、品のない方だ。華麗なる家系や仕立てのいいスーツなどを理由に彼を褒めそやす人がいるが、そんなことは人の品格には何も関係しないことがよくわかる。威圧的なものいいといい、つくづく下品な方である。
彼なりに上川外相を褒めたつもりなのだろう。しかし、こうした褒め方が完全に時代遅れだということにもきっと気がついていない。気がつこうともしていない。
それを受けて、当の上川外相は「どのような声もありがたく受け止める」と返した。これには正直なところ落胆した。こうしていなすことは彼女の処世術なのだと思う。からかいと見下しを含んだ褒め言葉に怒らないことは、「わきまえた」大人の対応と褒められたのは昭和か、せいぜい平成まで。
外務大臣という立場でこの発言を受け流せば、海外から、日本は今でも女性はどんなに仕事で成果を出しても年齢や外見に言及される国だと見られる。そして、麻生太郎副総裁のような方々は「本人がありがたいといってんだから、別に問題ない」と思ってしまい、態度や考えを改めようとしない。
上川外相だけではない。私の友人知人にも、男性の無自覚なからかいや見下しを受け流し、時には性的な冗談に笑顔で対応し、組織の中でキャリアアップしていった優秀な女性はたくさんいる。ホモソーシャル的ボーイズクラブにおける名誉男性的女性だ。今までのことを批判するつもりはない。そうしなければキャリアアップできなかったし、確固たる地位を築かなければ発言する場もないわけだから。
しかし、優秀な彼女たちだけではない。私たちやその上の世代の女性が衝突を避け、我慢しながら大人の対応をしてきてしまった結果が今。副総裁が平気で大臣をおばさん呼ばわりして、「そんなに美しい方とは言わんけれど」などと言い放つ社会である。上川外相だけではない、私の友人知人にも、私にも責任がある。
私が新卒で入った会社では、取引先に「女相手に仕事の話なんかできるか」と言われて伝票を投げつけられた。社内では挨拶がわりに身体を触られることが日常だった。社会はそういう理不尽なものだと思ってしまった。若さや未熟さをいい訳にせず、きちんと抗議をするべきだった。フリーランスになってからは、仕事の話と呼び出され、お酒を飲みながら延々相手の自慢話を聞かされて終わることはしょっちゅうだった。フリーという立場は弱いから、などといういい訳を自分にしないで、きちんと声をあげるべきだった。
今になってそういう後悔ばかりしている。私には上川外相や輝かしい地位を築いた友人知人のようなキャリアはないけれど、こういう小さな積み重ねが積もり積もって今の日本を形成してしまったように思う。