22才で劇団を立ち上げてから53年。古希を過ぎてなお、新しい芝居のジャンルに初挑戦し続け、“生涯アマチュア”を目指すと言い切る風間杜夫にインタビュー。若かりし頃の思い出や、つかこうへいさんとの出会い、そしてこれからについて聞いた──。【前後編の後編。前編から読む】
1960年代末〜1970年代初め、風間は早稲田大学で演技を学びながら、「俳優小劇場」の養成所にも通っていた。そして当時の仲間で、後に同居もする大竹まこと(74才)や斉木しげる(74才)、さらに、きたろう(75才)たち(後のシティボーイズ)と22才のとき、劇団『表現劇場』を立ち上げたのだという。
「ぼくはこの頃、役者になると決めていたので、アルバイトで食いつなぎながら芝居をするのは違うと思ったんです。役者で食べていけるようにならなきゃ意味がないと。それで、宣材用の写真を撮ってあちこちに持っていきました」
それが功を奏した。映画会社「日活」関係者の目に留まったのだ。当時の日活は社運を懸けて路線を変更し、成人映画レーベル「日活ロマンポルノ」を1971年に立ち上げたばかりだった。
「成人映画の撮影でしたから、世間の偏見があったかもしれませんが、当時の日活の撮影現場は、そんなことを意に介さないほど熱意にあふれていましたね」
成人映画の撮影ならば、女優との浮いた話もありそうだが……。
「いやいや、ぼくは当時偏屈で、共演者とはほとんど話しませんでした。食堂にもいかず楽屋に籠っていたくらい(笑い)。
ロマンポルノは女優さんを撮るのがメイン。特に絡みのシーンでは男のぼくは映らないよう、撮影中は監督の指示に従うことが多かったんです。“はい、風間くん、もうちょっと上にずれて”“次、左のおっぱい吸って”って、もう細かい。現場は色気も何もないですよ。
でも、田中登監督なんかは、作品に裏テーマをのせていて、たとえば、ぼくが出演した『女教師 私生活』(1973年)では、沖縄から出てきた青年が、本土の女性に養われるという設定だったんですが、その2人の関係を描くことで“沖縄と本土の関係を見つめ直す”とおっしゃっていました。単なる成人映画ではなくて、監督たちの映画作りへの熱意と愛がこもっていました。
1972年から14本に出演させてもらいましたが、ロマンポルノはぼくにとって青春映画でしたね」
故・つかこうへいさんとの運命の出会い
日活ロマンポルノに出演したことで役者として生活できるようになったことに加え、映画やドラマ出演の依頼が来るようになったという。つかさんと知り合ったのもこの頃だ。
「1975年、つかさんがかかわっていた早稲田大学の劇団『暫』の演出家たちが、ぼくたちの芝居を見に来てくれたんです。彼らは、『暫』の舞台の出演者を探していて、つかさん原作の『出発』に出演することになったんです。その稽古中に一度だけ、つかさんが見に来たのですが、そのとき、つかさんの劇団に誘われました。
つかさんの芝居の何がおもしろいって、“口立て”(完全な脚本がなく、その場でせりふを決めていく)なんです。そういった芝居は初めてだったし、つかさんの何事もおもしろがるエネルギーには圧倒されました」
何才になってもさまざまなジャンルに挑戦し、どんなことも楽しむ姿勢やアドリブへの対応力は、つかさんの影響だろうか。いずれにせよ、風間はつかさんの舞台には欠かせない役者となっていった。そして1982年、風間が33才のとき、つかさんの小説『蒲田行進曲』が、深作欣二監督によって映画化されることになり、同作の舞台に出演していた風間と平田満に出演依頼が来た。これが役者としての転機となった。
「実は深作監督ともご縁がありましてね。子役時代、『名犬物語 断崖の少年』という映画に出演し、真冬に川につかるシーンがあったんです。そのとき、ドラム缶風呂に湯をわかし、カットになるたびに風呂に入れてくれたやさしい助監督が、深作さんだったんです。映画撮影で再会したとき、“お〜、あのときの坊主か”と言ってくれて……。うれしかったですね。いろいろな人と出会ってつながって、いまの自分があるんですよ」