【書評】『七十人訳 ギリシア語聖書 箴言』/秦剛平・訳/青土社/5940円
【評者】嵐山光三郎(作家)
『七十人訳聖書』は二〇〇〇年前にヘブライ語の預言集を七十人の学者が手わけしてギリシア語に訳したものである。その旧約がキリスト教の聖典となり、プロテスタントの新約聖書に引用され、とんでもないフェイクになった。
秦剛平はヘブライ語はもとよりギリシア語を解読できる。すでに『七十人訳ギリシア語聖書入門』(講談社選書メチエ)や『美術で読み解く聖人伝説』(ちくま学芸文庫)が刊行されている。
秦氏はICU、京大大学院をへてドロプシー大学(フルブライト)で学び、オックスフォード大学(客員教授)→ケンブリッジ大学(フェロー終身会員)の名物学者。アメリカの大学神学部は徹底した無神論者の教授が多く、ハーバード大神学部は無神論者の牙城である。秦氏が客員研究員をしているイエール大の教授陣は無神論者とリベラルでなりたち、福音派は一人もいない。それを知らずに入学してきた学生は一年足らずで退学している。
秦訳はお話文体で面白い。マリアはイエス・キリストの母親であるが、福音書によればイエス以外ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ、ほか姉妹二人を産んだ(「マタイ伝」)。マリアは六人以上子持ちの肝っ玉母さんなのに「処女マリア」とされる。紀元前の暗号文字であるヘブライ語を解読できる学者は、世界中捜しても極めて少ない。
秦氏による『七十人訳聖書』翻訳は、開始から21年かかった。加齢による体力の衰えで、目を酷使してめまいが頻発し病院にかつぎこまれた。幻聴症状が出て、MRIの検査を受けたが原因不明で、病院のベッドは震度七強の横揺れ、縦揺れとなり、なにも食べられず、担当医から「このままじゃ死んじゃうよ」と言われた。40日間入院して、退院するときは18キロ減の骨皮筋右衛門となった。
そんななか、翻訳の工夫をあれこれ考え、脚注をひとりでチェックして日本の聖書理解に真っ向から挑戦した。キリスト教(ユダヤ教)とは何かを極限まで遡り、この一冊で全巻訳が完成した。
※週刊ポスト2024年2月23日号