第七代漫才協会会長のナイツ・塙宣之氏と芸能研究家の神保喜利彦氏が、漫才協会外部理事である高田文夫氏からの「東京漫才について語ろう」という呼び掛けに応じて集まった。1960年代結成の昭和のいる・こいると春日三球・照代、関西の漫才ブームに対抗した星セント・ルイスとツービート、東京漫才を受け継ぐウエストランドの毒舌漫才などについて3人で語りあった。【全3回の第3回。第1回から読む】
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神保:昭和のいる・こいるは、てんや・わんやの弟子です。
高田:二人は歌声喫茶で出会ったんだよね。
塙:えっ、のいる・こいる師匠がカラオケボックスで?
高田:カラオケじゃないんだよ、歌声喫茶。
塙:ああ、歌声喫茶は違うんだ。
高田:つなぎでしゃべるのが面白いって言われて漫才になった。
神保:はじめは花園のいる・こいるって名乗ってたのに、三橋美智也さんが昭和という芸名をつけたっていう話です。
高田:昭和を乗り越えるっていうシャレなの。
塙:はあ~。なるほどね。
高田:玉置浩二が「落ち込んでいるとき、のいる・こいるの漫才を聞くとホッとする」って言うんで、おれがじゃあ歌でもつくる? って。それで、おれが作詞、彼が作曲で『そんなもんだよ しょうがない』をつくったのよ、2001年かな。
塙:いい歌ですよね。玉置さんもその後名曲いっぱい出して。
高田:のいる・こいるのおかげで玉置浩二はスランプから立ち直ったってわけだ。