【書評】『だれか、来る』/ヨン・フォッセ・著 河合純枝・訳/白水社/2530円
【評者】鴻巣友季子(翻訳家)
ノルウェーの作家フォッセは死にとり憑かれている。孤独とメランコリーに閉ざされ、アルコールに依存した時期もあったという。しかし「イプセンの再来」とも言われ、二〇二三年のノーベル文学賞を受賞。出世作となったのが、この戯曲「だれか、来る」だ。
筋書きらしいものがない静謐なフォッセの劇は、ベケットにも喩えられるが、実際、本作は『ゴドーを待ちながら』にヒントを得ている。登場人物は三人。名前はない。若くはない「彼女」と中年の「彼」は、二人を引き裂こうとする「他の奴ら」から逃れ、フィヨルドに臨む古い家を買って移り住む。
「波また波/そして それから海」という海の他何もない場所。ところが、二人の間に侵入してくる人物がいる。この家を祖母から相続し売却した若い「男」だ。「男」は「彼女」に関心をもち、ビールをぶら下げてくる。現れてはいなくなり、また不意にやってくる。「彼」は嫉妬に駆られる。「彼女」はだれかが来るとわかっていたのだろうと、「彼」は言う。二人だけの完璧な世界が崩れていく。この闖入者を政治的な何かに準えることも可能かもしれない。
フォッセは国の多数派言語「ボクモール」ではなく、あえて言語人口十パーセントの「ニーノルシュク」という西海岸の書き言葉で書く。
前者は一八一四年までノルウェーを占領していたデンマークの言語を土台にしており、後者は西海岸僻地の独特で多様な方言を収集して作られた言語だ。「辺境の言葉、農民や労働者の言語」とみなされがちだったが、フォッセは平凡な人々の暮らしをあるがままに描くためにこの言語を選んだ。しかし書き言葉ゆえに、舞台でしゃべるには難しさがあるという。この不自然さ、ぎごちなさには、この国とある地域がたどってきた歴史が刻印されているのではないか。
フォッセは自分の戯曲も小説も「song」と呼ぶ。研ぎ澄まされた歌に耳を傾けていただきたい。
※週刊ポスト2024年3月8・15日号