ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十三話「大日本帝国の確立VIII」、「常任理事国・大日本帝国 その6」をお届けする(第1410回)。
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「対華二十一箇条要求」の最高責任者は、大隈重信首相と加藤高明外相(のち首相)である。その加藤について、評伝である『加藤高明 主義主張を枉ぐるな』(櫻井良樹著 ミネルヴァ書房刊)では、冒頭で「戦前期の首相でも、明治国家を築きあげてきた元老や大隈重信を除いて、局長レベル以上の外務官僚と大蔵官僚の経歴を持ち首相となった人物は、加藤高明を除いていない」「加藤は稀有な存在だった」としている。
その一方で、「一九一四(大正三)年の四回目の外相就任は、第二次大隈重信内閣の副首相格としての入閣であったが、さんざんな評価であった。日本の第一次世界大戦参戦を積極的に導き、翌年には悪名高い対華二一ヵ条要求を袁世凱に突きつけ、中国の対日感情を決定的に悪化させた。これは(中略)欧米、とくにアメリカの反発をかうことになった」と指摘している。
さらに、加藤が首相になったとき幣原喜重郎を外相に登用し欧米との平和主義に基づく協調外交を展開したこと、つまり対華二十一箇条要求のときとはまったく正反対とも言える政治姿勢を取ったことも指摘し、「この外交政策の落差をどう説明すればよいのだろうか」とも述べている。幣原外交についてはいずれ分析せねばならないが、とりあえずは優秀な外務官僚でもあり、のちに首相になるほどの政治的センスもある加藤が、なぜ対華二十一箇条要求という愚かな振る舞いをしたのかについて述べねばなるまい。
ただ、ひょっとしたら大隈首相の命令で嫌々やったのではないかと考える人がいるかもしれないので、念のために述べておこう。そういう事実はまったく無い。大隈と加藤はこの問題に関する根本方針において基本的に一致していたのだが、大隈は加藤を絶対的に信頼しており、対華二十一箇条要求についてはすべてを加藤に任せていた。
この件に関する名目上の最高責任者は首相の大隈だが、実質的にそれは加藤なのである。この点に関しては、すべての歴史研究者が一致すると言ってもいい。だからなぜそんな「愚行を為した」のかは、加藤を分析するしかない。
ところが、前出の評伝執筆者もじつは「この侵略的で悪名高い外交を、なぜ加藤が行ったのかを合理的に説明することは難しい」とし、そして全五項にわたる二十一箇条要求のなかでももっとも強硬で侵略的と批判を浴びた第五項についても、「最後まで加藤が第五号にこだわった理由は、やはり説明がつかない」としている。加藤高明に関するあらゆる史料に精通し、もっともその行動に詳しいはずの評伝執筆者がそう述べているのだ。
もちろん、どんな優秀な人間でも人間である以上思い込みや見当違いがあり、考えられないようなミスをすることもある。しかし、このときの加藤がそうでは無かったことは証拠がある。ほかならぬ加藤自身の後年の述懐だ。
〈当時此方から申せば頗る頑強に抵抗された場合もありましたけれども、支那の当局の立場から考へれば是亦御尤な話である。一つとして己の方に貰ふものはない。皆やる方ばかりだ。軽々しく承知すれば国民から攻撃を受ける。無暗に返事も出来ない。なかなか向ふも辛かったのでありませう。〉
(『対華二十一ヵ条要求とは何だったのか 第一次世界大戦と日中対立の原点』奈良岡聰智著 名古屋大学出版会刊)