【書評】『構造と力 記号論を超えて』/浅田彰・著/中公文庫/1100円
【評者】大塚英志(まんが原作者)
何十年かぶり、と書くと大袈裟に聞こえるかもしれないが、一九八三年の刊行だから事実として四十年を経て再び本書の頁をめくる時、浅田彰がまるで村上春樹のような文体で「書く」人であったことを改めて思い出す。
その文体の「軽さ」はおたくや新人類と呼ばれた浅田とほぼ同年代のぼくたちの世代から見ると、一世代上の「軽さ」であって、ぼくなども直接目撃もした、政治の季節を通り過ぎてきた世代の諧謔というのか居直りというのか、ひどく刹那的で無理をした「軽さ」にこそ重なる印象だった。
無論、浅田にその屈折はないから「軽さ」に戦略的な意味を持たせたのが「追いつかれるべき自己と追いつこうとする自己」が絶えず交替し、永遠に「主体」たることから「逃走」していくあり方で、彼の「軽い」文体もそのために敢えて選択されたもののような気がしていたことを思い出す。
このような浅田の「戦略」は現代思想的な本論を読まなくとも、まさにその「軽い」文体による書き換えとしての「序にかえて」で相応に読み取れる。そこでは大学生に向けた学び方のていで「対象と深くかかわり全面的に没入すると同時に、対象を容赦なく突き放し切って捨てること」と要約される。
だが四十年を経て思うのは、例えば「私」という近代的な主体に「没入」し、しかし直後に切って捨てるという「逃走」が浅田のいう「近代」だとすれば、彼が「ポスト近代」を唱えて四十年後の私たちの前にあるのは例えば「日本」や「日本人」でもいいのだが、縋るようにプレモダン的「主体」や構造の復興を訴える人々の群れではないか。
オンラインでは自身による「主体」を相対化する無限の突き放しどころか、誰かの「主体」にマウントをとり束の間、自身の「主体」を発生させるという、逃走論の悪質な擬態の如き、プレモダンへの回帰が繰り返される。結局のところ私たちはまともに「近代」を達成できないままポストモダンと口走る四十年だったのかなとも思う。
※週刊ポスト2024年3月8・15日号