【書評】『映画と歴史学 歴史観の共有を求めて』/京樂真帆子・著/塙書房/7480円
【評者】井上章一(国際日本文化研究センター所長)
祇園祭は、京都を代表するイベントである。知名度は高い。その山鉾巡行には、全国から見物客がやってくる。今は、海外からの来客も、少なくない。観光京都のヒット企画でもある。行政からの支援も大きいと、聞いている。しかし、ほんらいは祇園社という神社の祭礼である。宗教行事としての側面がある。それを、公的な組織がサポートしてもいいのか。疑問の余地はある。
神事と巡行をわけてとらえる見方は、歴史家の林屋辰三郎が提示した。後者には、町衆の催事という側面もあることを論じている。そこに、市民社会が形成される契機も見てとった(『町衆』1964年)。映画の『祇園祭』(1968年)は、この筋立てをより尖鋭化させていく。神事には背をむけ、巡行に結集する町衆の姿を、映画はクローズアップさせた。しかも、室町幕府という権力に抵抗する民衆決起のよりどころとして。
この構図にしたがえば、巡行は宗教からきりはなせる。行政の手助けも、とがめにくくなる。なるほど、こうして祇園祭は市民の祭事になりおおせたのかと思う。
しかし、著者がそのこと、祭事の脱宗教化を、正面から論じているわけではない。この本は、映画制作と歴史研究のあいだでくりひろげられた葛藤に、光をあてている。あるいは、そこに横たわる溝をえがきだそうとした。
当初は研究の最前線にも、むきあおうとする。歴史家の著述を、ていねいに読む。史料にも、目をとおす。そんな映画人たちが、制作の過程で枝葉の部分をきりおとす。物語を単純化してしまう。制作にかかわったスタッフどうしの対立が、構成をかえていく。その経緯を、ていねいに書いている。
映画を、一方的に批判してはいない。さまざまな歪曲にもかかわらず、鑑賞者へ民衆の物語をわかりやすくつたえる。その力には、期待もよせている。これを、祇園祭の公的支援にたいする興味で、私はねじまげ読了した。京の町衆じたいに権力を感じる私の誤読だと言うしかない。
※週刊ポスト2024年4月5日号