ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十三話「大日本帝国の確立VIII」、「常任理事国・大日本帝国 その10」をお届けする(第1414回)。
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なぜ人気絶頂だった大隈重信首相は、「対華二十一箇条要求」(以下「二十一箇条」と略す)が出された翌年の一九一六年(大正5)正月早々(1月12日)に大陸浪人福田和五郎ら八人に襲撃され、爆弾をぶつけられた(結果は不発)のか。ここで、前年の一九一五年からの第二次大隈内閣の実績を振り返ってみよう。
国際的には日本の信用を落とし対中関係を著しく悪化させた「二十一箇条」だが、国内においては「あの袁世凱に一泡吹かせただけで無く、日本のとくに南満洲における利権を拡大した」ということで、むしろ大隈の人気は高まった。
ポピュリズムという言葉がある。定義はさまざまで固定はしていない。〈日本では、「大衆迎合」「衆愚政治」「扇動政治」、最近では「反知性主義」などと同じ意味で使われることも多いが、アメリカでは一般的にポジティブな意味合いで用いられることが多い。その反対に、ファシズムを経験したヨーロッパ諸国や日本などではネガティブに用いられる〉(『日本大百科全書〈ニッポニカ〉』小学館刊)からであるが、もしこれを〈政治変革を目指す勢力が、既成の権力構造やエリート層を批判し、人民に訴えて、その主張の実現を目指す運動〉(『ウィキペディア』)と肯定的に定義するなら、まさに大隈政治とはそういうものであった。
大衆の支持を得て元老政治を打破し、政党政治を確立せんとしたものだからだ。だが、その過程で外交を一任した加藤高明外相のあきらかな不手際が、「二十一箇条」という失敗を招いてしまった。その失敗には大隈の「監督責任」もあるが、最大の原因はやはり加藤の性格にあった。
〈「外交一元化」という理想から、陸軍との交渉を行ったことのない加藤が、陸軍との困難な交渉が予想される案件を一人で抱え込んだ。前もって物事の困難さが十分に自覚できないのは、リーダーとしての資質に欠ける。また陸軍などからの要求が膨大になっても大隈首相や元老に助けを求めず、彼らからの「干渉」を嫌い、一人でできるという姿勢を続けたのは、プライドの高すぎるせいである。結局加藤は、一人で陸軍からのほとんどの要求を受け入れ、困難な問題を先送りしただけであった。〉
(『大隈重信(下) 「巨人」が築いたもの』伊藤之雄著 中央公論新社刊)
大変手厳しい評価であるが、異を唱えるつもりは無い。しかし、皮肉なことにこの「二十一箇条」という失敗が「袁世凱に一泡吹かせろ」という大衆の思いに迎合した形となり、大隈の人気はますます高まった。