92歳になった名将・広岡達朗氏の野球界への忌憚のないコメントが今、バズっている。監督としてヤクルトスワローズ、西武ライオンズをそれぞれリーグ優勝・日本一に導いた広岡は、現役時代は巨人軍でショートとして活躍した。広岡の4年後に長嶋茂雄氏が鳴り物入りで巨人軍に入り、さらに4年後には王貞治氏が入団した。『92歳、広岡達朗の正体』(扶桑社)を上梓したノンフィクション作家の松永多佳倫氏が、広岡氏とONの知られざる関係性をリポートする。(文中敬称略)
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1954年、東京六大学のスター「早稲田の貴公子」と呼ばれていた広岡は自由競争化の中で数球団の勧誘を断って憧れの巨人軍に入団した。広岡のプロ野球入りは、職業野球と揶揄されていた球界においてエポックメーキングとなる。それまでの遊撃手といえばずんぐりむっくりの野暮ったい職人気質なイメージだったのが、180cmの長身に長い手足を生かした華麗な守備、強肩強打かつ都会的センスを纏って洗練されたいでたちは、ショートイコール花形を植え付けたからだ。まさに新時代のショートストップの幕開けとなった。
ルーキーイヤーから遊撃手のレギュラーとして三割一分四厘の打率を残した広岡は、三十路を超えた川上哲治、千葉茂、別所毅彦らを尻目に、巨人の看板選手となる。そして、プロ5年目の1958年には六大学新記録の8本の本塁打記録を引っさげて長嶋茂雄が巨人に入団。1年目から打点王と本塁打王の二冠に輝き、一躍ヒーローとなった。その長嶋と広岡は、球界屈指の黄金三遊間コンビとしてファンを魅了した。長嶋を広岡はこう評す。
「立教の監督砂押(邦信、元国鉄監督)さんが相当鍛えた。そもそも理論もへったくれもなく、本能のままやってしまう男。入団して四年間ぐらいは長嶋のプレーを見て、よく捕るな、よく投げるな、上手いなというのがあった。どんな球に対しても回り込まず直角に入る。あの守備は勉強になった。面白い男だったよ。若い頃なんか、ゲーム始まる直前に『ヒロさん、今日動けませんので』って言って本当に動かないんだから。前夜何をしてたんだってことよ(笑)。毎日違うタニマチが長嶋を引き連れていたから大変だったんだろう。たまに『ヒロさんもどうですか?』って誘ってくれたりして、可愛いやつだよ」