【書評】『日本と西欧の五〇〇年史』/西尾幹二・著/筑摩選書/2640円
【評者】平山周吉(雑文家)
文科省の意向とは一切関係なく、本書は期せずして、西尾幹二による「歴史総合」となっている。ベストセラー『国民の歴史』で「日本史」書き直しを試みてから四半世紀、米寿を迎えて世に問う「地球日本史」が完成した。
西尾の関心は当然、現代日本にある。その不甲斐なさへの「苛立ちや怒り」は激しい。その淵源をもとめるのに、ペリー来航に遡るのでは不十分と考える。「五〇〇年」を単位とし、大航海時代にまで遡る。しかも日本を中心に据えて見るのではなく、ヨーロッパのアジア東漸、アメリカの太平洋進出という大きな潮流の中に、海に囲まれた日本列島を置く。
大掴みな力技を必要とする仕事だが、「概説めいたことは書きたくない」。ここはと思われる歴史の現場へと「推参」する姿勢でいる。その貪欲な関心と瑞々しい筆致は、とても八十代の仕事とは思えない。未知の知識をどしどし吸収しながら、「私に理解できる範囲は限られている」と謙虚さを失わない。自らの試みを「文学的エッセイストの歴史論」と名づける。
歴史は往々にして、結果を知って、そこから安易に書かれる。それでは現場へ「推参」したことにはならない。一寸先が見えない現在進行形の時点へと想像力を届かせる必要がある。彼らはどんな世界地図の中で生きていたか。彼らを衝き動かしていたものは何だったのか。その積み重ねのすえに、「世界に一枚しかない」歴史年表が出来上がっていく。
本書の特筆すべき点は、「宗教」の重視にある。西洋文明は科学ばかりが目立つが、信仰と暴力と科学は一体であると考えるからである。それは「日米戦争は宗教戦争だった」という西尾の歴史観と表裏一体となっている。
西尾には六十年間にわたって、しゃかりきに言論で戦ってきたというイメージがある。言論戦によって、日本は変ったか。本書は日本についての国民性論ともなり、変らない日本への絶望感をも感じさせる。その空しさに耐えて、西尾幹二はなお前進しようとする。
※週刊ポスト2024年5月3・10日号