【書評】『老いた今だから』/丹羽宇一郎・著/講談社現代新書/1034円
【評者】香山リカ(精神科医)
タイトルにひかれてこの本を手に取り、一読してから「著者の丹羽さんって、伊藤忠の会長で中国大使も務めたあの丹羽さんとは違う人なのかな」と著者略歴を見直した。するとやっぱり“あの丹羽さん”だった。
なぜそんな疑問を抱いたのかというと、本書には輝かしい経歴の披露などの自慢話がひとつもなかったからだ。そのかわりに、長いシニア期をどうすごせばいいのか、経験や知識に裏打ちされたアドバイスがわかりやすい言葉でたくさん書かれている。その中からとくに私が「なるほど」と思ったものを紹介しよう。
「生きる指針」をつくってみよう。著者は「正直、清潔、美心」と「人は自分の鏡」の二つの指針を紙に書いて見ながら、それに背かずに行動しようと決めているという。妻に感謝し、何かしてもらったら「ありがとう」と口にして言おう。著者は、「私の生殺与奪の権を握っているのはワイフであり、彼女なしでは生きていけません」と素直に認めている。
定年退職後に新しい仕事などを始めるときは、これまでの価値観を捨てるためのマインドリセットが必要。「過去のプライドをいつまでも引きずっていると、新しい環境にうまく溶け込めないでしょう」と著者は言う。「どんなに前の会社や役所で偉かったとしても、組織の看板が外れれば、ただのオジサン、オバサン(ジイサン、バアサン)です」とも助言する。
そして、「孤独死」を怖れすぎない。「そもそも人間は、生まれてくるときも、死ぬときも一人」なのだから、「死というものに、孤独も何もあったものではない」というのが著者の意見だ。不安におびえるよりこれからの日々を考えよう、と励まされる。
どの言葉も、すんなり胸に入ってくる。日本のシニアがみなこの丹羽さんのようになれれば、自分も妻も子や孫も、後に続く世代もみなハッピーになれるに違いない。“あの丹羽さん”の書いた人生の極意をあっさりと伝える本、ぜひ読んでみてほしい。
※週刊ポスト2024年5月17・24日号