【書評】『三井大坂両替店 銀行業の先駆け、その技術と挑戦』/萬代悠・著/中公新書/1100円
【評者】関川夏央(作家)
江戸時代、米など各地の産物は海路で大坂に運ばれ、売りさばかれた。幕府や各大名の江戸屋敷が手にすべきその代金は、為替手形で江戸に送られた。幕府の場合は九十日後までに決済すればよかったから、三井大坂両替店はその猶予期間を使って大口、かつ比較的低利の融資を行った。
のちに三井銀行となる両替店員のキャリアは十歳くらいで始まり、十六、七歳で小僧から平手代となった。ずっと住み込みである。食事は一日に米四合で不足はないが一汁一菜、ただし月に二回生魚が出て酒も出た。
二十代後半に役付きとなるが、やはり住み込みの合宿生活はつづくからストレスはたまる。そのため店が女性も呼べる酒場と契約、そこでの遊興には補助がついたという。自宅から通えるようになるのはようやく四十歳過ぎだが、それを機に退職金を元手に独立する者が多かった。
この本の眼目は、二十代の平手代が行った顧客の「聴合」(信用調査)の内実である。借り手が「実体」(真面目な人)であるかどうかを調査し、「引当」(担保)となる家屋敷の価値を確かめるのである。
江戸末期から明治初期に訪日した外国人は、日本人の正直さと穏やかな表情に感動した記録を多く残した。それは日本近世への高い評価につながるのだが、大坂両替店が綿密な信用調査を必要としたのは、不正直な人、借金を踏み倒しかねない人が、それなりの比率で存在したからだ。また周囲の評判を気にするあまり、人に「実体」をよそおわせる圧力ともなっただろう。
まだ三十代のこの本の著者・萬代悠は、三井文庫に所蔵された江戸期金融業の信用調査文書から経済史の新しい分野を開拓したが、新書という一般教養書の範囲を専門書側にやや傾きすぎた感がないではない。
しかし読者は、この本で江戸期の金融サラリーマンの仕事と人生を知って、それまでの江戸時代のイメージが快く裏切られる快感を味わうことになる。
※週刊ポスト2024年5月31日号