【書評】『ジジイの文房具』/沢野ひとし・著/集英社クリエイティブ/1870円
【評者】嵐山光三郎(作家)
なんといっても14金ペンの万年筆である。ジュウヨンキンペンというキラキラ輝く万年筆は、三日月の眉の形になって、目玉のなかに飛びこんできた。
中学一年生になった記念に父が買ってくれたパイロット万年筆。家に遊びにきた級友にそっと見せた。神の力が万年筆の筒の奥から刺しこんでくるようだった。カバンに入れて持ち歩くうち、なくしてしまった。
今年八十歳になる沢野画伯は、山でアルバイトをして稼いだ金で京都へ行き、丸善で買った高価なモンブランの万年筆の軸を鴨川の流れに落としてしまった無念を語り出す。語るのもせつなく、読む者もつらい。
大学のときは伯父がウォーターマンの万年筆を買ってくれた。持ち歩かないようにした。就職した初任給で、ペリカン万年筆を買った。これはいまも使っている。パソコン、タブレットの時代になっても紙に染みこんでいくブルーブラックの色がいとおしい。
沢野画伯は、つけペンの快楽を語る。ゾーリンゲンのはさみ。消しゴムのかずかず。消しゴムつき鉛筆。中国の文房四宝(硯、墨、筆、紙)。そして鉛筆。すべてイラストレーションが描かれている。
色褪せた分度器。透明なプラスティックの半円形の板で、角度を割り出す。小学校四年になると分度器と三角定規が算数の授業で使用された。コンパスも登場し、軸をクルッと廻して円を描いた。手品みたいにマンマルとなる。ヤマト糊。哀愁のダブルクリップ。
自分勝手に生きてきたわれらジジイに、やり場のない怒りや悲しみが押しよせるとき、文具売り場へ行き、小さな鉛筆削り器を買う。マッチ箱ほどの削り器へ鉛筆を差しこんで廻す。削りかすが8の字を描くようにくるくると出てくる。それは鳴門海峡の渦潮のようになる、と沢野画伯は図入りで示す。旅さきの町の文具店の陳列棚にたたずみ、沢野ジジイはロマンティックなヨロコビを感じるのです。拍手、拍手。
※週刊ポスト2024年5月31日号