【書評】『お尻の文化誌 人種、ファッション、科学、フィットネス、大衆文化』/ヘザー・ラドケ・著 甲斐理恵子・訳/原書房/4180円
【評者】井上章一(国際日本文化研究センター所長)
標題を見れば、少なからぬ人が、ちょっとエッチな本だなと感じよう。女性のお尻をとらえた図像記録が、たくさん紹介される歴史の読み物であろう、と。じじつ、表紙の意匠や帯の文句は、そういう期待をあおっている。
書き手のヘザー・ラドケは女性だが、あるていどそう読まれることも覚悟していたらしい。この本には家父長的な男社会のまなざしを、批判しきれていないところがある。そのこともわきまえたうえで、しかし彼女はこれを書かずにおられない。
御当人は、お尻の大きくはった女性として成長した。だが、その体型には違和感をいだきつづけてきたという。身体にあう衣服がなかなか見つかりにくいという現実も、その悩みを深めてきた。
いったい、自分を自意識のとりこにしてしまう尻とは何なのか。何が自分を困惑させてきたのだろう。そんな疑問を足がかりとして、著者は歴史の海へもぐっていく。そして、彼女をなやませた尻にかかわる審美眼のなりたちや変化をさぐりだす。この本はその成果である。男権批判としては弱いのかもしれない。しかし、自己を解放せんとする展望も秘めた一冊は、とにかくしあがった。
今日的なかっこいいお尻像の形成に、黒人女性への共振があったとする歴史観はおもしろい。白人の、やや時代にさきがけようとする層が黒人の肯定的な臀腰美を学習した。あるいは、簒奪する。そうして、当初は下品だと見られた身体美感をとりいれた。この経緯をおいかけた叙述は説得的である。ジャズがスタイリッシュにみがきあげられていった音楽史を、ほうふつとさせた。
私見だが、21世紀の欧米では、臀部がくっきりうかぶいでたちの女性を、よく見かける。そして、日本にこの傾向は、あまり見られない。風俗史を左右しうる存在としての黒人層が、日本にはいないせいだろうか。日米の大衆文化史を比較するさいに、この問題ははずせない。一読して、強くそのことをかみしめた。
※週刊ポスト2024年6月7・14日号