会社の役職定年を控えた54歳の健一は転職活動がうまくいかず、ばくぜんと将来の不安を抱えている。大学時代の映画サークルの後輩である妻の智子にはそのことを言えず、夫の不機嫌が智子を悩ませていることにも気づかない。
健一も智子も、真奈には愛情深い父親、母親で、読者の目にも魅力的な人物に映るが、家庭では一言多かったり肝心なことが言えなかったりして、思いがすれ違う。
パートナーの不機嫌に大勢の人が悩んでいる
「小説の中に『不機嫌は立派な暴力』という智子のせりふがあります。『夫 不機嫌』で検索すると、ものすごい数の、夫の不機嫌に悩む妻たちの怒りと嘆きがぶわーっと出てくるんですよ。何を言うわけでもなく暗い顔でやたらため息をつかれたり、舌打ちされたり、物に当たられたり。妻が『何か怒ってるの?』と聞くと、『怒ってないよ』という返事の口調がすでに怒ってる、とかね。
もちろん逆の、妻の不機嫌もあって、大勢の人がこうしたことに悩んでいます。『いま不機嫌なのは気分が悪いから』『体の調子が悪い』とか、ちょっとしたコミュニケーションがあるといいですよね、と思いながら書いていました」
健一が長年連れ添った妻には決して見せることのない笑顔を、他の女性に向けるのを見た智子がショックを受ける場面はとてもリアルだ。智子がつとめて明るくふるまうことが、鬱々とした健一の気持ちを追い込んでいるというのもせつない。
「自分もそうですけど、50代って『老人の若葉マーク』で、元気なんだか年寄りなんだかわからないし、そのことが頭ではわかっていても気持ちが追いつかなかったり、寂しさや焦り、驚きがモヤモヤとあって、自分の中で解決できない。同世代は同じ思いを抱えているんじゃないかと思います」
すらりとした潔癖症の青年として登場する優吾も、両親がSNSの有名人で、母のマルコは子どもの優吾を被写体にしてインフルエンサーとなり、ベストセラーも出していることなどが徐々にわかってくる。マルコの実家はとんでもない資産家でもあり、披露宴へのお金のかけ方やドレスの選び方、優吾の両親とのさまざまな価値観の違いにも、それまで堅実に生きてきた真奈や健一・智子夫婦は振り回されてしまう。
高梨家は東京郊外にあり、智子は新潟出身、健一の母親は静岡県三島市の施設で暮らす、という設定だ。これは、新聞がいくつかの地方紙で掲載されることを考えての選択ですか?
「最初に連載のお声がけをいただいたのが、『ミッドナイト・バス』の映画のイベントで訪ねた新潟日報さんなんです。映画はオール新潟ロケで、撮影に協力してくださった新潟の皆さんが本当に楽しそうで、私にとって『1つの小説で世界がここまで広がるなんて、小説って夢があるな』と思えた経験でした。いい形で新潟の読者がワクワクしてくれる話を書きたかったので、新潟出身の人物を1人登場させるというのは最初に決めていました。
三島は東京から近くて景色の綺麗な場所というので決めました。富士山があるのと、伏流水の湧き出る場所が本当に美しいんですよね。大きな吊り橋もあって、恋愛の『吊り橋効果』としてその橋を使おうと思ってたんですけど、分量や読むスピードを考えてその場面はなくなったんですけど」