今回の件では、日頃は多様性の大切さを訴えているように見える人たちが、痛いところを突かれてカチンと来たからなのか、急にクラス委員みたいになって、他人の発言や受け取り方を「世間様が認める正しい枠」に押し込めようとしました。無意識のうちに「自分が認める範囲で」という前提を付けてしまったら、「多様性」という言葉が一気にウサン臭くならないでしょうか。もうなっているのでしょうか。とても心配です。
「ニュースへの関心が高くて世界情勢や政治を憂いている自分が大好き」という人は、あなたのまわりにもいるはず。個人的な観測範囲では、そういう人は年齢を重ねるにつれて、どんどん頑固で偏屈になります。コンビニの店員さんに声をかけるどころか、ささいなことで店員さんを怒鳴り付けかねません。「ニュースを見過ぎると人は傲慢になる」「ニュースは人を勘違いさせる」というイメージが広がらないか、ものすごく心配です。
困ったことに「心配の種」は、どんどん湧いてきてキリがありません。世の中を少しでも明るくするために、お店の人や道行く人に満面の笑みを向けまくったほうがいいですね。でも、気味悪がられないかな……。ああ、また「心配の種」が増えてしまいました。