〈小説とちがい、私にとっては俳句は無責任な愉しみだけを与えてくれるので今では無二の友になりました〉
2021年に99歳で亡くなった瀬戸内寂聴氏は、知人への手紙にこう綴った。谷崎潤一郎賞、野間文芸賞など数々の栄誉に輝いた小説家にとって、俳句作りはささやかで特別な時間であった。寂聴氏が京都・嵯峨野に開いたお寺「寂庵」の書斎から没後に見つかった大量の句稿が、このたび遺句集『定命』として編纂された。
「一句一句が寂聴さんの十七文字の日記のようで、読むと胸がぎゅっと苦しくなります」
本作を読んでこう語るのは、自身も俳句を詠む俳優・映画監督の奥田瑛二氏(74)。奥田氏は30代の頃、対談で寂聴氏を訪ねた折に「今ここで一句詠まないと、この後のお食事に連れて行かないわよ」と促され俳句を詠み始めた経緯がある。その際に本名を聞かれ「安藤豊明」と答えるや寂聴氏から「寂明」の俳号も授かり、「寂聴さんは畏れ多くも“俳句の師”」と話す。
『定命』に並ぶ166句には、恋、執筆、孤独、出家、反戦など人生の折々が詠まれる。
「寂聴さんの乙女心が感じられますし、品性、ロマンチシズム、アバンギャルドな部分もある。飾らない言葉でなんと美しく生涯を綴っているのかと感嘆しました」(奥田氏、以下同)
「あなたは強い子」
とりわけ奥田氏の心に響いた句が、
〈凍蝶や亡き魂追うかほろほろと〉
凍蝶は、寒さでほぼ動かなくなった蝶の意。
「晩年のご自身を蝶になぞらえたのでしょうか。ほろほろと、は伝い落ちる涙の描写にも思えますし、この句をどう解釈するか、一生をかけた宿題を出されたような気がします」
奥田氏は寂聴氏から生前、忘れられない言葉をかけられた。
「『あなたは人を頼らなくても生きていける強い子だから、そこがいいのよね』と言われました。その意味をずっと考え続けているのですが、たしかに昔から僕は孤独が好き。僕のことをよく見てくださっていると感じますし、僕を強くしてくれる言葉です。寂聴さんもひとりぽっちは嫌いだけれど孤独はお好きだったと思う。〈独りなり沈丁の香に夜の雨〉という句がありますが、沈丁花のみずみずしい香りが湿度とともに立ちのぼるよう。寂しさとは異なる『独り』の情景が浮かびます」
俳人としての眼差しのありようが互いに似ているとも感じたと言う。
「僕は心に祠を作り、自分の分身をそこに入れることで本当の自分と向き合う時間を持っています。寂聴さんの客観的な目線のある句は『心の祠』に通じるものがあり、今の僕を肯定してもらった気がして勇気づけられます」
書くことが生きることであった稀代の文人の作品は、読者の生をも温かく抱きとめてくれるのだ。
※週刊ポスト2024年6月21日号