俳優、エッセイスト、イラストレーター、テレビマンなど、数々の分野で類稀なる才能を発揮してきた伊丹十三さん。「映画は僕の全人生の煮こごり」と語ったように、彼が最後に辿り着いた仕事の集大成が映画監督だった。鮮烈な映画監督デビューから40周年。51歳にして映画監督デビューした当時を、妻の宮本信子が追懐する。(文中敬称略)
「これは映画になる」
伊丹十三の監督第1作『お葬式』(1984年)は、宮本信子(79)の父の葬儀でのとある景色から生まれた。妻であると同時に伊丹映画の顔として支えてきた宮本は敬意を込めて「伊丹さん」と呼ぶ。
「火葬場に上がる煙を見て、伊丹さんが『小津(安二郎)さんの映画みたいだね』と言ったんです。父の死を悲しむどころか、映画やりましょって(笑)。結婚した時から、伊丹さんには1本でいいから映画を作ってもらいたかった。なんたって彼は伊丹万作の息子ですから。ふたりの父親が天国から見守ってくれている気がしましたね」
51歳という映画監督としてはまれに見る遅咲き。異業種の才能が監督業に進出するのは今や珍しくないが、その先駆となったのも伊丹だった。しかし撮影が始まった当初は、彼の手腕を見定めるような空気もあったという。
「当然、スタッフの皆さんは伊丹さんにどのくらいの腕があるのかと思いますよね。でも最初のラッシュ(撮影素材の試写)で、劇場がシーンと静まり返ったんです。皆さんを見ると、伊丹さんが受け入れられたことがわかった。それから雰囲気はガラッと変わって、誰もが『この監督に付いていこう』と。そういう瞬間は、なかなかないでしょう。とても幸せな瞬間でした」
自分も異業種出身なればこそ、映画ではまだ珍しかったスタイリストやフードコーディネーターといった人材もいち早く登用。その細部への情熱を「当時、俳優の衣装は映画会社の衣装部が用意したものから選ぶのが常識。でも伊丹さんは『ネクタイを3本から選ぶなんて嫌だ』と言ったり、セットの椅子を全部取り替えたり。映るものはなんでも充実させようとしていました」と、宮本も証言する。
その徹底ぶりはセリフの一言一句にまで及んだ。
「アドリブはもちろんのこと、セリフの“てにをは”を変えるのも絶対に許さないんです。でも『マルサの女』(1987年)で、私が頭にたたき込んだセリフを、伊丹さんが突然変えたの。そのときは『できません!』って反抗しました。共演の小林桂樹さんも『よく言ってくれた』って(笑)。とっても印象に残っていますね」
取材・文/奥富敏晴(映画ナタリー) 企画協力/松家仁之
※週刊ポスト2024年7月12日号