WBA世界スーパーフライ級王者として、IBF王者フェルナンド・マルティネス(32)との2団体統一タイトルマッチに挑んだ井岡一翔(35)。序盤からマルティネスが繰り出す左右の強打に押され続け、全12ラウンドを戦い抜いたものの判定(0-3)で敗れた。
ボクシングでラウンドごとの採点を担うのはリングサイドの「ジャッジ」で、選手とともにリングに立ち試合進行を統括するのが「レフェリー」だ。反則行為の監視やノックダウンの判定を行うほか、時にはボクサーの命を守るために割って入り、試合をストップさせることもある。判定の際、リング上で勝者の片手をあげて示すことも、レフェリーの仕事である。
そんなレフェリーの仕事について、元日本チャンピオンでJBC(日本ボックシングコミッション)のベテラン外国人レフェリー、ビニー・マーチン氏に『審判はつらいよ』の著者・鵜飼克郎氏が聞いた。第3回は、マーチン氏が遭遇した「前代未聞の替え玉ボクサー事件」についてだ。(全3回シリーズの第3回。第1回から読む。文中敬称略)
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JBC(日本ボクシングコミッション)の外国人レフェリー、ビニー・マーチンは元プロボクサーで、27戦18勝(7KO)7敗2分の戦績を持つスーパーウェルター、ミドル両級の元日本王者でもある。デビューはミドル級で、同時期に同じ階級でデビューしたのが竹原慎二だ。
竹原との初対戦はデビューした1989年の暮れ、東日本新人王決定戦だった。マーチンは判定負けを喫した。3年後の1992年8月に日本ミドル級タイトルマッチの挑戦者として竹原に挑むが、またしても判定負け。竹原は3度目の王座防衛を果たした。
竹原が4度目の防衛後に王座を返上したことで、日本ミドル級王者の挑戦権を手にしたマーチンは、1993年4月に日本ミドル級王座決定戦でKO勝ち。日本ボクシング界初のガーナ人王者となった。この快挙は母国の新聞にも大きく載った。
その後の王座陥落、交通事故による負傷を経てリングを一時離れたが、ジュニアミドル級(現スーパーウェルター級)に階級を下げて復帰すると、事故から3年後の1996年6月に日本ジュニアミドル級の王座決定戦で判定勝ちし、2階級を制した。竹原がWBA世界ミドル級の初防衛戦前の公開スパーリング相手にマーチンを指名したことも話題になった。
1998年に現役を引退後、彼が次に選んだのがレフェリーとしてのボクシング人生だった。1999年にレフェリーデビューを果たして以来、現役時代より長い四半世紀に及ぶレフェリー人生を歩んでいる。