【書評】『歩き娘 シリア・2013年』サマル・ヤズベク・著 柳谷あゆみ・訳/白水社/3300円
【評者】山内昌之(富士通フューチャースタディーズ・センター特別顧問)
ガザ戦争の影に隠れてシリア内戦の悲劇が忘れられがちだ。著者ヤズベクは、アサド大統領が反対派国民たちを毒ガスで攻撃した事件を素材に、幾重にも陰翳あふれるシリア内戦をめぐる心理小説を書き上げた。
主人公は、自由にされるとどこまでも歩く奇癖を持つ女性。普通の会話は不自由ながら、『クルアーン』を暗誦できる特異な才能に恵まれている。『星の王子さま』や『カリーラとディムナ』などの文学作品に啓発された豊かな知性や女性的な芸術感覚も忘れがたい。
主人公の性格には著者の教養や経験の拡がりが投影されているのだろう。そして、シリア革命の諸断面は、検問所・病院監獄・居住区への爆弾投下・化学物質からの防疫などの描写を通して多面的に伝えられる。
本書の主題は、飢え、恐怖、死である。主人公によれば、食べるという行為を済ませれば飢えは終わり、そのあとは滅多に思い出さなくなる。しかし、恐怖は円の形をしていて始まりも終わりもない。
「恐怖という円は、足に中心があって、あなたの周りも内側も、向こう側からも背後からも包み込んで、お腹の一番下のところで終わっている」。恐怖は「おしっこという熱い液体として流れる」とは、恐怖を内面化した者でなければ書けない感想であろう。
他方、主人公は化学兵器攻撃の後に、毒ガスの「いやな臭い」が鼻の中に残ったまま、また「やはり変な臭い」を放ちながら積み上げられた女性の死体の群れと一緒に「水の中で泳ぎながら、まどろんでいたあのとき」、死と別れを理解しようとしたというのだ。
気がつけば蠅と自分しかいない地下室で何週間過ごしたかもしらぬままに、飢えと渇きに苦しみながら思い出すのは、互いに好意を抱いた青年のくれた赤いりんごの思い出である。
書中であなた宛に片手の青いペンで書く文章も終えざるをえない。我々読者は「あなた」ことシリアからの重い問いかけに耳をふさぐことはできない。
※週刊ポスト2024年7月19・26日号