【書評】『勇気論』/内田樹・著/光文社/1870円
【評者】関川夏央(作家)
いまの日本社会に欠けているもの、それは「勇気・正直・親切」だと内田樹はいう。この本は、編集者がそれらの言葉から導かれた記憶を書簡にしたため、著者・内田樹が長い返書を書くというスタイルでつくられた。
だが著者は、必ずしも「勇気・正直・親切」の内容を回答・解説するわけではない。編集者の言葉に刺激されて思い出した「話頭」を、あえて転々とするのは、いわば内実ある雑談による「哲学」の本のありかたなのだが、同時に「回想の現代史」としてのおもしろさも生まれた。
内田樹は一九五〇年生まれ、編集者は「チッキ(国鉄委託手荷物)」「汲み取りの共同トイレ」「深夜放送」「ラジカセ」などの語彙から推して、「定年延長世代」と思われる。
その彼が一九七〇年代末の学生時代にアルバイトしたのは、ユーミンをデビューさせ、やがてYMOを世界に売り出すアルファレコードであった。『翼をください』などのヒット曲で知られる若い村井邦彦が社長で、彼が遊び心でつくった社是は、「犬も歩けば棒に当たる」「毒も食らわば皿まで」「駄目でもともと」の三条だった。
内田樹が七七年、友人たちと立ち上げた翻訳の会社が多忙をきわめたのは、外国への売り込みが急増した活況下の人手不足に悩む大企業が「猫の手」を借りたがったからだ。そして内田樹たち「猫の手」は優秀で仕事が速かったので、年少者に意地悪ではないおじさんたちに重宝され、好ましい関係を保った。それが、がさつではあっても刺激的であった七、八〇年代の「時代的精神」だった。
ところが現代はどうか。「費用対効果」「エビデンス」「自己責任」といった言葉が流行し、おじさんたちは平気で青年たちを罵倒する。萎縮した青年たちはスマホとヘッドセットで武装して他者を遠ざける。「勇気・正直・親切」の影は薄い。半世紀に満たぬうちに社会の空気はこれほど変わるものなのか。老人に溜息をつかせる本でもある。
※週刊ポスト2024年7月19・26日号