松田聖子と中森明菜が揺るぎない地位を確立した年、それが1984年だった。デビューからプレイクを支えた仕掛け人たちが“特異な1年”について語った。
聖子のデビュー曲『裸足の季節』(1980年)の編曲を手掛けた信田かずお氏は当時をこう振り返る。
「デビュー前からすでに、中低音から高音までの伸び、表現力、歌唱力が完璧に備わっていました。1983年の『瞳はダイアモンド』などのバラード曲は、艶っぽいビブラートで歌い上げる歌唱も完全に自分のものにしていて、洗練された歌手になったと感じていました」
一方、明菜のブレイクのきっかけとなった『少女A』(1982年)を作詞した売野雅勇氏は、明菜の転機についてこう語る。
「『少女A』など私の作詞した楽曲を比べて思うのが、『十戒〈1984〉』(1984年)で明菜さんの歌い方が完成したということ。彼女は楽曲によって歌のトーンや色合いを変幻自在に変えるんです。アイドルの顔を続けてはいたけれど、ボーカリストへの転身を宣言したのが『十戒〈1984〉』だったと思っています」
当時、ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)でプロモーションを務めた田中良明氏も、1984年が明菜の転機になったという。
「デビュー当初から、衣装に対し『これに憧れる同年代はいない』など、押し付けられた十代のイメージをはっきり否定する自己主張ができる人でした。1984年の『飾りじゃないのよ涙は』は、井上陽水さんの尖った楽曲イメージを明菜なりに昇華させた曲で、衣装も明菜のセンスを鮮明に打ち出したもの。聖子とも百恵とも違う、まったく新しいアイドルの誕生に立ち会えたと、震えるほど感動したのを覚えています」
聖子にとっても1984年は特異な1年と語るのは、音楽評論家の中川右介氏。
「1983年は『天国のキッス』でアイドルポップスの頂点を極め、『SWEET MEMORIES』『ガラスの林檎』でバラードも歌えることも示し、やるべきことはすべてやった達成感があったと思います。1984年に入ると『時間の国のアリス』『ピンクのモーツァルト』など、歌謡曲の枠組みを超えた前衛的な曲が続き、これは新たなアイドル像、つまり第2期の聖子を模索するための実験だったといえます。それにしても、どんな曲でも売れるので、かえって、次は何を歌わせようか、松本隆さんをはじめ、作詞家、作曲家、制作陣もかなり頭を悩ませたでしょうね」