放送作家、タレント、演芸評論家、そして立川流の「立川藤志楼」として高座にもあがる高田文夫氏が『週刊ポスト』で連載するエッセイ「笑刊ポスト」。今回は、高田氏の“もの書きの師匠”永六輔さんについて綴る。
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「落語」の師・立川談志の享年は75。私は6月で76歳になった。師を追い越してしまった。「メディア・もの書き」の師。永六輔は、享年83。7月7日、七夕の日が命日。2016年のことだから8年が経つのだ。
生前直接きいたことがある。「“見上げてごらん夜の星を”なんて書いてるんですから、永さんは死んだら星になるつもりですか」「なりません! 僕は浅草の寺の子ですから、星になんかにならず 死んだら草葉の陰にいます」とピシャリ。
“草葉の陰”とは草の葉の下という意味から墓の下のこと。あの世。
少し前に“私のお墓の前で泣くな”とか“そこに私はいません”とかいう歌が流行ったことがあったが(『千の風になって』)、あの頃知り合いの谷中の墓の石屋達が怒ってたのを想い出す(寺内貫太郎みたい)。「そこにいませんとか言われたら、こっちゃ商売あがったりなんだよ。いるんだよ。墓参りに人が来なくなったら、こっちが参っちゃうんだよ」。その通り。
学生時代、私は永六輔からあらゆることを学んだ。「芸能」とは、「芸人」とは、「メディア」とは。『芸人 その世界』で「芸」の深さを知り『大往生』では死を見つめた。初めて書いた書きおろしが『芸人たちの芸能史』(昭和44年)。芸能の歴史をたどっていけば“ヤクザ”“女郎”“芸人”が“一身同体”であったことを学ばされる。
私はどんどん大衆芸能にはまっていき「弟子入りさせて下さい」と手紙を書いた。「何でもやります。生まれたばかりの女の子のおむつも替えます」と必死。3日後すぐにハガキが来た。江戸っ子のやることは速い。「私は師匠無し、弟子無しでここまでやってきました。弟子を取るつもりはまったくありません。友達だったらなりましょう」。なれるか! あっちはすでに放送界の大御所、こっちはただの学生。
それから10年。私は自力で世に出た。『ビートたけしのANN』『オレたちひょうきん族』。永さんの様に喋り手としても人気者となった。その時1枚のハガキが届いた。「今からでも遅くはありません。弟子になって下さい 永六輔」とあった。10年かけたシャレだった。
このたび半世紀の時を越えてその『芸人たちの芸能史』が中公文庫で復刊。「帯は誰に?」と編集者が2人の娘にきくとすぐに口を揃えて「高田さん」と言ったとか。ていねいに手紙も来て「文庫化するにあたって初めて読んだんですが、本当に父は芸能史を勉強していて凄いんだと知りました」とありました。そうあの日おむつを替えようとした赤ちゃんが元フジテレビの永麻理である。
※週刊ポスト2024年8月2日号