阪神甲子園球場100年の歴史に高校野球は欠かせない。なかでも印象に残るのは、高校野球ファンを「まさか!」と唸らせた“ジャイアント・キリング”だろう。1973年に怪物・江川卓を擁した作新学院(栃木)に挑み、延長サヨナラ勝ちした銚子商(千葉)ナインの戦いに迫った。
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元祖「怪物」の名が冠せられた作新学院の江川卓は、1973年春の選抜で初めて聖地のマウンドを踏み、準決勝までの4試合で60もの三振を奪ってみせた。
「高校生であれほど速いボールは見たことがない。度肝を抜かれました」
そう振り返るのは銚子商のOBにして、巨人で活躍した篠塚和典(当時は利夫)だ。作新と銚子商はその年に春の関東大会と練習試合で対戦。当時1年生の篠塚は、稀代の豪腕から1本ずつ安打を放っていた。
「自信にはなりましたけど、うち1本はどん詰まり。このボールをクリーンヒットできるようにならないと、プロにはなれないと思っていました」
その夏の甲子園、両校は2回戦でぶつかった。だが、篠塚は千葉大会の直前、走塁練習中に3年生の二塁手・長谷川泰之の膝に右腕をぶつけ骨折。この試合はスタンドから江川と銚子商の2年生エース・土屋正勝(元中日ほか)との息詰まる投手戦を観戦していた。
「江川さんの直球は、ボールが垂れず、打者からしたら浮き上がってくるように感じるんです。シュート回転することもなく、みんなボールの下を振っていた。現代的にいえば、スピン量が凄まじかったんでしょう」
雨脚が強まるなか、試合は両校無得点で延長へ。12回裏、銚子商は2つの四球と単打で一死満塁のチャンスを掴む。打席には篠塚の代わりに二塁に入った長谷川。疲労が隠せない江川から押し出しとなる3つ目の四球を選び、銚子商がサヨナラ勝利を手にした。怪物が力尽きた瞬間だった。
取材・文/柳川悠二
※週刊ポスト2024年8月9日号