【書評】『渡す手』/佐藤文香・著 /思潮社/2200円
【評者】鴻巣友季子(翻訳家)
詩、詩集というと、日本では「理解できるだろうか」と構えるところがある。そろそろこういう意識は変えていきたい。あるいは、政治家の意味不明の文言を「ポエム」と呼んだりするのもやめにしたい。
詩というのは世界を翻訳したものだ。訳者によってがらっと訳文が変わるように、詩人はそこに世界の姿をさまざまなやり方で映しだす。パラレルワールドが沢山あると思えばいい。
佐藤文香は高校生の頃から俳人として活躍し、今年この『渡す手』で詩人として「中原中也賞」を受けた旬の人だ。「夏の夜」という詩はこんなふうに始まる。
「ぞくぞくと色がくる。夏の夜だからだ。照らされた葉とその葉が次の葉に落とす影、照らされた幹には枝の影。」第二連はこうだ。「タクシーもいい。タクシーは空車がいい。」
なんだか、「枕草子」の「夏は、夜。月のころはさらなり。闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ、二つなど、ほのかにうち光りていくも、をかし。雨など降るも、をかし」を思わせたりする。第六連にはこうある。
「ぞくぞくと、さようならがくる。夏の夜だからだ。君は、君も多くの色が好きなはずで、我々は、自分自身を補うことをぬかりなく。」
この語り手には、手紙を書こうと思って随分時が過ぎてしまった想い人の「君」がいるらしい。
「淋しくなどないことは自明だ」と、まるで自明でないことを書いてその逆であることを溢す。最終編の「目の粉」の最終連には、こうある。
「両目をかるく、閉じ直す/冷えたメリーゴーラウンドと/ただの悲しい歌のそこだけ新しい音の展開」
「両目をかるく閉じ直す」ではないんだな、と思う。「かるく、」と息が小さく止まる。日常の中にある、見えないほどの情動の空隙。どの言葉にも明澄な寂寥がうっすらと降り積もっている。一つ一つの詩を「理解」できなくてもページを繰る手が止まらない。そんな稀有な体験をした。
※週刊ポスト2024年8月9日号