これまで何人もの伝説のヒーローが誕生してきた甲子園。そのヒーローの1人である定岡正二(67才)が当時を振り返る──。
1974年の夏、鹿児島実業(鹿児島)の3年生エースの定岡は、初戦と3回戦の2試合を完封し、準々決勝では原辰徳を擁する優勝候補・東海大相模(神奈川)と激突。下馬評を覆し、延長15回を213球で完投。5対4で勝利した。
「大きな“戦艦”に立ち向かうような感覚でしたが、相手は同じ高校生という冷静さもありました。試合後、アルプス席の応援団に駆け寄ったとき、みんなが涙を流して喜ぶ姿を見て、勝ったという実感が湧いてきました」(定岡・以下同)
この試合の視聴率は34%。その日は興奮して疲れを感じなかったが、朝になると体が鉛のように重かったという。無情にも、防府商工(山口)との準決勝は翌日の第一試合だった。
定岡は、先制点を狙いホームにヘッドスライディングをした際、右手首を負傷。病院での治療後、ベンチに戻ったが、チームはサヨナラ負けを喫した。
強豪校相手に一歩も引かず勝利し、アクシデントにより甲子園を去る。そんな悲劇性も加わり、ますます甲子園ギャルは熱を帯びていく──。
「甲子園に向かうときは親戚が10人ぐらいしか集まらなかったのに、勝つごとに宿舎を取り囲むファンが増え、地元の西鹿児島駅(現鹿児島中央駅)に戻ったときは、約3000人が詰めかけて驚きました」
以来、自宅の電話は鳴り止まず、1万通を超えるファンレターが届いた。
「甲子園100年ストーリーのひとつになれたかな」
【プロフィール】
定岡正二/野球解説者、野球指導者、タレント。1974年のドラフト1位で巨人に入団。文中の東海大相模戦の試合中継の中断をきっかけに、テレビ放送の延長が始まったといわれている。
※女性セブン2024年8月8・15日号