ライフ

【書評】嵐山光三郎氏が選ぶ、79年前の戦争を知るための1冊 『野火』生きるために人肉嗜食の欲望と闘う戦場の修羅を描いた戦争文学の傑作

『野火』/大岡昇平・著

『野火』/大岡昇平・著

 敗戦から今夏で79年。戦争を体験した世代の高齢化に伴い、300万人以上もの犠牲者を出した、悲惨な先の大戦に関する記憶の風化が心配されている。いっぽう、世界を見わたせばウクライナやガザなど、未だ戦火は絶えず、さらに海洋覇権奪取を目論む中国、核ミサイルの実戦配備を急ぐ北朝鮮など、我が国を取り巻く状況も大きく変化してきている。

 79回目の終戦の日を前に、「あの戦争とはなんだったのか?」「あの戦争で日本人は変わったのか?」などを考えるための1冊を、『週刊ポスト』書評委員に推挙してもらった。

【書評】『野火』/大岡昇平・著/新潮文庫(1954年4月刊)
【評者】嵐山光三郎(作家)

 大岡昇平は昭和十九年(三十五歳)フィリピンに出征し、ミンドロ島に駐屯するが、その翌年俘虜となった。苛酷な体験『俘虜記』は雑誌『文學界』(昭和二十三年二月号)に発表されて評判となり、続編がつぎつぎと書かれた。国家への忠誠を捨てた兵士たちの生態と省察。それにつづく『野火』(昭和二十七年)は病気のため軍隊から捨てられた兵士の彷徨がリアルに示される。

 主人公(私)は分隊長に頬を打たれて「馬鹿やろう、中隊にゃお前みたいな肺病やみを飼っとく余裕はねえ」と叱られた。病院へ行けと命じられても病院は受け入れてくれなかった。

 レイテ島で喀血した「私」こと田村一等兵は山中の患者収容所へ送られ、軍医より「肺病なんかで来るな」と拒否された。駐屯地から五日分の食料を与えられていたが、とりあげられた。

 行き場を失った「私」はルソンのジャングルや谷や川を歩きまわる。林が切れると丘の上から野火があがった。丘の煙は牧草を焼く火だが「狼煙」はなんらかの合図であろう。

 路傍に倒れている者がいた。動けない者が、表情のない顔で坐っている。熱帯の潰瘍で片足がふくれあがっていた。ブリキの小片を足にあてている。絶望の同僚たち。八人は若いマラリア患者、下痢、脚気、熱帯潰瘍、弾創がある敗残の日本兵たちであった。

 ビュルルーと砲弾の飛ぶ音が聞こえ、マラリアの兵士は草に俯伏せて動かない。米軍砲火の前を虫けらのように逃げ惑う同胞の姿。

 死ぬまでの時間を思うままにすごすという無意味な自由。死は観念ではなく、いま、ここにある。「私」が殺した女の屍体の目が見開かれている。飢えのなかで人肉の嗜食を制止する意識とはなにか。草も山蛭も食べた。生きるため、人肉を嗜食する欲望と闘う「狂者の手記」という目で、戦場の修羅を描いた名作。

※週刊ポスト2024年8月16・23日号

関連キーワード

関連記事

トピックス

割れた窓ガラス
「『ドン!』といきなり大きく速い揺れ」「3.11より怖かった」青森震度6強でドンキは休業・ツリー散乱・バリバリに割れたガラス…取材班が見た「現地のリアル」【青森県東方沖地震】
NEWSポストセブン
前橋市議会で退職が認められ、報道陣の取材に応じる小川晶市長(時事通信フォト)
《前橋・ラブホ通い詰め問題》「これは小川晶前市長の遺言」市幹部男性X氏が停職6か月で依願退職へ、市長選へ向け自民に危機感「いまも想像以上に小川さん支持が強い」
NEWSポストセブン
3年前に離婚していた穴井夕子とプロゴルァーの横田真一選手(Instagram/時事通信フォト)
《ゴルフ・横田真一プロと2年前に離婚》穴井夕子が明かしていた「夫婦ゲンカ中の夫への不満」と“家庭内別居”
NEWSポストセブン
二刀流かDHか、先発かリリーフか?
【大谷翔平のWBCでの“起用法”どれが正解か?】安全策なら「日本ラウンド出場せず、決勝ラウンドのみDHで出場」、WBCが「オープン戦での調整登板の代わり」になる可能性も
週刊ポスト
高市首相の発言で中国がエスカレート(時事通信フォト)
【中国軍機がレーダー照射も】高市発言で中国がエスカレート アメリカのスタンスは? 「曖昧戦略は終焉」「日米台で連携強化」の指摘も
NEWSポストセブン
テレビ復帰は困難との見方も強い国分太一(時事通信フォト)
元TOKIO・国分太一、地上波復帰は困難でもキャンプ趣味を活かしてYouTubeで復帰するシナリオも 「参戦すればキャンプYouTuberの人気の構図が一変する可能性」
週刊ポスト
世代交代へ(元横綱・大乃国)
《熾烈な相撲協会理事選》元横綱・大乃国の芝田山親方が勇退で八角理事長“一強体制”へ 2年先を見据えた次期理事長をめぐる争いも激化へ
週刊ポスト
2011年に放送が開始された『ヒルナンデス!!』(HPより/時事通信フォト)
《日テレ広報が回答》ナンチャン続投『ヒルナンデス!』打ち切り報道を完全否定「終了の予定ない」、終了説を一蹴した日テレの“ウラ事情”
NEWSポストセブン
青森県東方沖地震を受けての中国の反応は…(時事通信フォト)
《完全な失敗に終わるに違いない》最大震度6強・青森県東方沖地震、発生後の「在日中国大使館」公式Xでのポスト内容が波紋拡げる、注目される台湾総統の“対照的な対応”
NEWSポストセブン
安福久美子容疑者(69)の高場悟さんに対する”執着”が事件につながった(左:共同通信)
《名古屋主婦殺害》「あの時は振ってごめんねって会話ができるかなと…」安福久美子容疑者が美奈子さんを“土曜の昼”に襲撃したワケ…夫・悟さんが語っていた「離婚と養育費の話」
NEWSポストセブン
《悠仁さまとの差》宮内庁ホームページ“愛子内親王殿下のご活動”の項目開設に「なぜこんなに遅れたのか」の疑問 皇室記者は「当主の意向が反映されるとされます」
《悠仁さまとの差》宮内庁ホームページ“愛子内親王殿下のご活動”の項目開設に「なぜこんなに遅れたのか」の疑問 皇室記者は「当主の意向が反映されるとされます」
週刊ポスト
優勝パレードでは終始寄り添っていた真美子夫人と大谷翔平選手(キルステン・ワトソンさんのInstagramより)
《大谷翔平がWBC出場表明》真美子さん、佐々木朗希の妻にアドバイスか「東京ラウンドのタイミングで顔出ししてみたら?」 日本での“奥様会デビュー”計画
女性セブン