敗戦から今夏で1979年。戦争を体験した世代の高齢化に伴い、300万人以上もの犠牲者を出した、悲惨な先の大戦に関する記憶の風化が心配されている。いっぽう、世界を見わたせばウクライナやガザなど、未だ戦火は絶えず、さらに海洋覇権奪取を目論む中国、核ミサイルの実戦配備を急ぐ北朝鮮など、我が国を取り巻く状況も大きく変化してきている。
79回目の終戦の日を前に、「あの戦争とはなんだったのか?」「あの戦争で日本人は変わったのか?」などを考えるための1冊を、『週刊ポスト』書評委員に推挙してもらった。
【書評】『空想家とシナリオ・汽車の罐焚き』/中野重治・著/講談社文芸文庫(1997年1月刊)
【評者】大塚英志(まんが原作者)
戦時下の作家たちはいかなる言語空間を生き、同時に紡いだのか。
例えば女学生の日常を描いた太宰治『女生徒』は、同作が日中戦争勃発の翌年に発表されたこと、そして日米開戦の日付を題名に持つ、戦争に高揚する主婦の日記の体で描かれた小説「十二月八日」を含む形で女性一人称小説集『女性』として戦時下、刊行されたことを考えれば、戦時下の女性の非政治的な言語空間がいとも簡単に翼賛体制に収斂していった様を肯定的に描いたものだとようやくわかる。
このような戦時下における屈託のない批評性の欠如が太宰の特長だが、「生きてゐる兵隊」の発禁体験を経て、戦時下の小説で思いの外大きなジャンルとして存在する家庭や生活を扱う小説に専念した石川達三は、「日常の戦ひ」で町内会の同調圧力でリベラルな大学教授の体制への帰順をやはり肯定的に描き、映画化もされた。
戦時下の小説はこのようにしばしば「日常」を描くことで政治性を剥離させることに熱心だった。
中野重治「空想家とシナリオ」は大政翼賛下の作家の日常を実はリアリズムで描くが、「空想」がそもそもその想像力の方向が限定づけられた戦時下用語であったことや、作中で主人公が強いられる、パルプから紙が作られるところから始まる本の作り方についての無意味な映画のシナリオが、実際に存在した「文化映画」と呼ばれる啓蒙映画であり、転向したマルクス主義系作家の受け皿であったことを知らないと、なにか深遠な文学的比喩として誤読してしまう。だがこの小説では、真綿で首を絞めるように非・政治的というより無・政治的な言葉を求められる作家の屈託した生活が辛うじてだが垣間見える。
これらの戦時下の作品から読みとれるのは、作家自身が無・政治的な言語空間からなる日常作りの担い手であったことで、そうやって作家が率先して政治的でない政治的な日常とことばを作った歴史は今の時代、ものを書き発信する現場にいる人間は思い出していい。
※週刊ポスト2024年8月16・23日号