敗戦から今夏で1979年。戦争を体験した世代の高齢化に伴い、300万人以上もの犠牲者を出した、悲惨な先の大戦に関する記憶の風化が心配されている。いっぽう、世界を見わたせばウクライナやガザなど、未だ戦火は絶えず、さらに海洋覇権奪取を目論む中国、核ミサイルの実戦配備を急ぐ北朝鮮など、我が国を取り巻く状況も大きく変化してきている。
79回目の終戦の日を前に、「あの戦争とはなんだったのか?」「あの戦争で日本人は変わったのか?」などを考えるための1冊を、『週刊ポスト』書評委員に推挙してもらった。
【書評】『東京焼盡』/内田百けん(『けん』はもんがまえに月)・著/中公文庫(2004年3月刊)
【評者】与那原恵(ノンフィクション作家)
〈本モノノ空襲警報ガ初メテ鳴ツタ〉昭和十九年十一月一日から二十年八月二十一日までの三百日を綴った日記。東京が毎日のように空襲され、焼け野原と化していく様を内田百は克明に記録した。市ヶ谷駅に近い麹町区(現千代田区)土手三番町に妻と暮らす百けんは、この間に五十六歳を迎える。文業の傍ら日本郵船などの嘱託として勤務していた。
十九年十二月は連日夜から深夜、朝方まで何度もの空襲警報と警戒警報が繰り返され眠ることもできないが、出社を続ける。食べるものを手に入れるのも困難で、二十年正月は〈朝も晩も動物園の鹿の食ふ様な物ばかり家内と二人で食べてゐる〉。
緊迫する日々にあって百けんはユーモアを交え、季節の風物や友との交遊を書き添える。誰もが苦しいときに野菜や酒を百けんに分けてくれる人もいて、そんな庶民の暮らしや哀歓を見つめるまなざしは細やかだ。
家に迷い込んだ雀を〈ひねつて晩には焼いて食べようと思つた〉が〈泣き出しさうな気持〉にもなり逃がしてやった。〈それで気分が軽くなつた〉。空襲はしだいに頻度を増し、激しくなる。三月十日深夜の東京大空襲。敵機が次々と現れる赤い空の下を焼け出された人々が歩いていった。五月二十五日夜、百けん宅付近にも焼夷弾が雨のように降り、妻とともに土手へ逃げた。家は焼けてしまった。
地方に疎開した友人に〈手紙を書かうと思つてゐる内にその町が無くなつてしまふ。日本もえらい事になつたと思ふ〉。七月二十一日には郷里の岡山での記憶を鮮やかによみがえらせる。百けんらしく〈岡山が空襲で焼けて無くなつても思ひ出すには一向差閊ない〉。
疎開しなかったのは逃げ出すという気持がいやだったからで、〈何ヲスルカ見テヰテ見届ケテヤラウト云フ気モアツタ〉。終戦の翌年、百けんが刊行したのは『御馳走帖』。彼も食糧難にあえいでいた最中、うまいものをずらりと並べてみせた。夫妻は二十三年五月まで三畳の掘立小屋で暮らした。
※週刊ポスト2024年8月16・23日号