【書評】『本居宣長「もののあはれ」と「日本」の発見』/先崎彰容・著/新潮選書/2090円
【評者】平山周吉(雑文家)
「まずもって私が宣長に惹かれるのは、「西側」から到来する普遍的価値観にたいし、日本人がとった対応の最良の事例を提供してくれるからである」
「宣長が取り戻そうとしたのは、裁断され、切り刻まれる以前の日本人の肉声、すなわち太古の息吹をたたえた「もののあはれ」に基づく人間関係にほかならない」
江戸時代の国学の巨人・本居宣長を、先崎彰容は現代の眼で甦えらせた。それは現代の物差しで宣長を切り取ることではない。宣長の言葉に沿って宣長を味読し、先崎の問題意識と宣長が共振するのを待つ作業といえよう。大学の卒論が宣長だったのだから、以来二十数年の歳月を要している。
先崎の言う「西側」とは、近世までの「中華」と近代以降の「西洋」を総称する。その「西側」への懐疑を徹底させたのが宣長だった。本書は宣長の前半生の評伝だが、青春期までを描く前半部分の筆致は、江藤淳の『漱石とその時代』を想起させる。「新潮選書」という同じシリーズだからか。
たとえば、江藤の漱石には「嫂」登世との恋が想定されていた。先崎の宣長には「友人の妹」民との恋が想定される。民は宣長の再婚相手となる女性である。国語学者で、『本居宣長全集』の編纂者でもあった大野晋は、宣長が最初の夫人を離縁し、未亡人となっていた民と再婚した事実を明らかにした。先崎は大野説を発展させて、宣長の生涯の主題となる「もののあはれ」、生涯の愛読書となる「源氏物語」や和歌と、宣長の実人生での恋の関係を探っていく。
和歌は「古今伝授」という秘伝があり、伝統と政治権力による権威づけで、がんじがらめになっていた。宣長の発見する和歌は、「「恋」がわが国の人間関係の基本だという事実」である。
先崎の発見した「私たちが考えるよりもはるかに人間通」な宣長の後半生が、この後も描かれることを期待する。その時、小林秀雄『本居宣長』(新潮文庫)、熊野純彦『本居宣長』(作品社)に続く『本居宣長』となるだろう。
※週刊ポスト2024年8月30日・9月6日号