【書評】『捜査・浴槽で発見された手記』/スタニスワフ・レム・著 久山宏一、芝田文乃・ 訳/国書刊行会/3190円
【評者】大塚英志(まんが原作者)
オンライン以降の社会や政治を一体「文学」はどう描くべきか。そういった立論がこの国の文学に必要とされているのかを僕は知らないが、問えば情弱め、と冷笑しか帰ってこない様子からして、オンライン上のことばやそれが収斂する世界をネット環境がネイティヴな人々はもはや「疑う」ということを知らないのか、そもそも「疑わない」ようにあらかじめ躾がなされた人たちが集い運用されるのがオンラインという世界なのかと考えた時、情弱者の違和を案外と正確に書き留めてくれているのは旧社会主義時代のソ連や東欧のSF小説だと改めて思う。
映画『惑星ソラリス』の原作者でもあるスタニスワフ・レムの中編「捜査」は、よもやレムの読者にネタバラシと怒る人もいないだろうから記すが、真相が宙ぶらりんのまま終わる探偵小説で、捜査に関わる人々は、細心に正確に殺人事件を語ろうとするがその細部から導き出されてしまうのは、犯行現場への距離や温度などからなる「数式」である。この数理だけが因果律として存在する世界線が、この小説を様式こそ探偵小説であっても、その本質をSF小説たらしめているといえる。
そして、この殺人事件さえも細部が数理に統治される世界像は、個別の投稿や情報の収斂していく世界像は不在で、ただ、アルゴリズムだけがあるオンライン世界への「暗喩」や「批評」として、今となっては読める。かつての社会主義体制はアルゴリズムがイデオロギーである点でオンライン社会とパラレルで、共通点は数理によるガバナンスだ。
社会主義体制では「文学」は政治的であろうとすれば「暗喩」を駆使した「寓話」にならざるを得ず、それがSFを豊穣にもした。同じことは、やはり文学が徹底して政治的であることから導き出された中南米文学のマジックリアリズムにも言え、昨今のガルシア・マルケスの唐突な復興は、オンライン社会の政治を描く文学様式の不在を反映しているのかとも思う。
※週刊ポスト2024年9月13日号